「お前は、私を恨んでいないのか？」
　月天王は背を向けたまま、静かに云った。 過去に何度か繰返された問いだ。しかし、黒衣の鯨の答えは変わらない。
「わたしが月王様を恨む理由がどこにありましょう」
　丁寧な口調で、強く否定する。
「私が禁を侵してお前を天に呼び寄せたりしなければ、お前は大海の王として自由に暮らせたはずだ」
「鯨王として海を治める生活に自由などあるはずもない。広い天空を翔る今の方が、どれだけ自由か知れません」
「しかし、お前は輪廻の輪から外れ、仲間も失った」
　黒衣の鯨は顔を上げた。穏やかで優しい表情は、背を向けていても月天王には見えているはずだ。
「そんなことは、わたしに何の痛みも与えません。わたしの幸せは月王様に唄うこと。わたしの望みは昔も今もただ一つ。貴方の傍で、貴方の為に唄うことなのです」
　天に召された日から、月天王が悔やむことのないように、問われれば何万回でも答えようと黒衣の鯨は誓っていた。生まれてこのかた、月天王以外に唄ったことなどないのだと。
「許されるなら、今宵ここで唄いたいのですが…」
「仕事は終わりだと言ったはずだが」
「それは分かっております」
「壺に唄うなら、どこか他所でやってくれ」
「そうでなくて…」
（意趣返しされている…）
　黒衣の鯨はつかの間、脱力してしまった。機嫌が直っているのなら、唄う必要はないかもしれない。しかし…
「お前が、自分の唄を唄うのは久し振りだな。せっかくだから聴いてやろう」
　ウキウキ顔で振り返る月天王を見ると
（わ…わかりやすい…。しかも、可愛い�｡）
　体から溢れてくる唄を抑えることはできそうもなかった。
　すらりと立ち上がり、軽く両手を広げ目を閉じる。
　それは静かに始まった。声というよりは、音という方が近い。体の奥から発生した音の波は、ドーム形の壁面に反響して幾重にも重なり、そこにある全てのものを震わせた。不快感はない。優しく体に染み込んでゆく波動は、心を癒す力があるといわれている。
「相変わらず良い声だ」
　リラックスした姿勢で聞き入る月天王の身体は、月光色に輝いていた。
「手を…」
　黒衣の鯨が触れると、月天王の輝く指先に暖かな気が流れ込んだ。
「お前は暖かいな」
　 月天王は温度を持たなかったが、流れてくる暖かな気は心地良かった。
「私は…、他のものを幸せにできる神ではない」
　呟くようにいった言葉に、黒衣の鯨は優しく微笑んだ。唄は部屋に満ちていて、途切れることなく続いている。
「幸せは己の内から生まれるものです。月王様はわたしに幸せを生む力を与えてくださったのですよ。人間達があれほどの罪と罰を背負いながら、力強く生きてゆけるのも、幸せを生む力を失わずにいるからに他なりません」
「私は、人を愛している…。お前の事も…、愛しているんだ…」
「存じております。月王様…」
「私の愛は、報われているのか？」
「もちろん」
　黒衣の鯨の言葉に、月天王はふわりと笑い、そしてゆっくりと瞼を閉じた。
「少しお休みください。わたしは今しばらくここで唄っておりますから…」
　黒衣の鯨が静かに離れると、椅子はその形を変え、月天王を卵形に包み込むと、床に吸い込まれるように見えなくなった。
　その夜は、多くの人が夜空のクジラの甘く優しい唄声を聴いたと云う。

-終-