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月と鯨
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| 黒衣の鯨の表情が和らいだのを、月天王は見逃さなかった。
「何が可笑しい」 「笑ってなどおりません」 「いーや。確かに笑ったっ！」 身を乗り出して云うだだっ子の様な月天王に、黒衣の鯨も今度は苦笑を隠せない。 「申し訳ありません」 静かに頭を下げた。素直に謝られると、月天王もそれ以上責められない。 「ふん」 ふんぞり返って不満そうに鼻をならしただけだ。そんな仕種も可愛いと思えてしまうのだから、仕方ない。 「月王様が人間を愛していらっしゃるのが、嬉しかったのです」 頭を垂れたまま、黒衣の鯨が云った。月天王は憮然として返す。 「人間を愛しているのはお前の方だろう。夜空のクジラ」 「わたしは、人間の放つ言霊が好物なだけの、ただの鯨に過ぎません」 「見え透いた謙遜だな。いくら好物でもそればかり喰っていられるものではないだろう」 「わたしは愚かな鯨ですから。好物を食べて、月王様に唄えることが幸せなのです」 「次期鯨王であったお前が、愚かな鯨なものか。ほんとに食えない奴だな」 次期鯨王という言葉に黒衣の鯨は微かに反応した。 「遠い過去の事。もう忘れました」 云い切る黒衣の鯨に、月天王もそれ以上は言及しない。大きくため息をついて、天を仰いだ。 「愚かなのは、人間の方だ。私は人間ほど愚かな生き物を他に知らぬ。人間は自己中心的でわがままで、勝手で気ままで残酷だ」 あまりの云い様ではあるが、黒衣の鯨は何も云わなかった。 「しかも、旺盛な好奇心で何にでも首を突っ込みたがる。神聖な領域も土足で平気とくるから、始末に負えない」 調子に乗って止まらなくなったのか、月天王は椅子から立ち上がって喋り始めた。 「後悔の念も学習能力も持ち合せてはいるが、大抵は欲望のままに行動する。すでに生物の鎖から外れているくせに、連鎖の頂点に居座る態度も、尊大で生意気だ」 どこまでつづくかわからない愚痴も、行き着く先は決まっている。黒衣の鯨は、辛抱強くそれを待った。 「どうしてこんなに愚かで…」 そこで言葉を切り、月天王は力なく椅子に躯を預けた。椅子は柔らかく月天王を受け止める。 「どうしてこんなに、愛しいのだ…」 甘い吐息とともにこぼれた最後の言葉は、煌めく月光となって世界に放たれた。少し切ない愛の言葉が、今宵は世界を包むだろう。多少歪んだ愛ではあるが…。 腹が立つのに嫌いになれない、これは恋に近い。月天王は人間に恋をしているのだ。それはもう、気が遠くなるほど永い間。何度も裏切られているのに嫌いになれない。おかげで口は悪くなるし、性格も多少（？）ひねてしまったが、月天王がそれを自覚しているかどうかはナゾである。 「人間達は、自分の罪も罰も知っておりましょう。少しづつでも、変化はあると思われます」 黒衣の鯨は、漆黒の双眸で天頂の窓に浮かぶ蒼い星を眺めながら云った。 「…わかっている」 月天王も金色の瞳で同じ星を眺めていた。月天王の椅子は形を変えて、その細い首を支える。白銀の髪がさらりと流れた。 |