『ねぇ、みるく。伝説やおとぎ話の中にも、真実はあるんじゃないかな。僕は、夜空のクジラはいると思うよ。僕はそれで救われた。そういう救いは、みんなに訪れると思うんだ。勿論、みるくにも』
　みるくは、答えなかった。それは、ハルの言葉を否定する沈黙ではなくて、だた、何と答えればいいのか分からなかったのだけれど…。
　みるくには、ハルが電話をくれた理由が分かってしまったから。
『こんな話しをしたから、もうばれてしまったかな？』
　ハルは、少し照れたように云った。みるくは受話器を握りしめたまま、言葉が出ない。
　こんな展開は予想していなかった。
『毎年思ってはいたけど、なかなか実行できずにいたんだ。だけど今回は、色んなことがスムーズにタイミングよく運んで、こうして月から君にメッセージを送ることができる。かなり照れくさいんだけど、僕もずっと、一番に祝福したいと思ってた。実現できて、嬉しいよ』
　ハルと話しているうちに、日付けは変わっていた。みるくがこの世界に生まれた記念日に。
『みるく、誕生日おめでとう』
「…ハル…」
　みるくは唐突に、今夜見ていた夢を思い出していた。実体のない、漠然とした不安に追い掛けられる夢だ。不安は大きな球となってみるくを追い掛けてくる。怖くて逃げようと思うのに、足は思うように動かない。何かを捨てなくては、走れない。でも、何も持ってなどいないのだ。不安はすぐ後ろまでせまっていた。ものすごい圧力でみるくを押しつぶそうとする。怖くて、苦しくて。そしてみるくは、自分を手放した。
『みるく、今年は夢が叶うといいね』
　ハルの声は、ひどく優しく響いて、忘れかけていた自分と夢をみるくに思い出させてくれた。煩雑な毎日の中で時間に流され、みるくは自分を失くしていることにさえ、気が付かなかったのだ。
　例えば、
　家族や友だちに囲まれた毎日の中で、不意に孤独を感じたり、
　安全な場所にいるのに、急に不安になったり。
　闇雲に自分の存在意義や、生きていることの意味を知りたくなったり。
　例えば、そう、
　熟睡していた筈の真夜中、泣きながら目を醒ましてしまったり………
　みるくの言葉にならない想いが夜空を翔けて、今は月にいるハルに届いたのだろうか。今なら、みるくも月天王と夜空のクジラを、信じられるような気がした。
「ハル…」
『うん？』
「…ありがとう」
　受話器の向こうで、ハルが微笑んでいる。そんな暖かな気配がした。
「ハルの顔が見たいな。今度はテレビ電話で…」
　云いながら、ハルのいる月を見上げた、その時。
「…！」
　大きな影だった。いや、影よりも闇に近い。質量のある闇のような、重圧感のある黒い大きな何かが、月とみるくの間を横切った。音はなかった。風も吹かなかった。けれど、確かに何かが通ったのだ。
『もしもし？　みるく？』
「ハル…！　今、……っ！」
　そして、みるくは聴いた。感じたと言った方が近いかも知れない。胸の辺りに直に響く音。夜空のクジラの鳴き声だ。それは思った以上に強烈で、体が共振していた。
　音が止んでも、痺れのような感覚が身体に残って声がでない。 不快ではないが、急に疲労感が襲ってきて体が重く感じられた。そのままベッドに倒れ込んでしまう。
『…みるく…今度、月に…招待する…。そ…したら、もっ…たくさん…はな……』
　クジラの影響なのか、ハルの声がよく聞こえない。
　途切れ途切れのハルの声は、それでも耳に心地よくてずっと聴いていたい気持ちになる。みるくは受話器を耳にあてたまま、ゆっくりと、眠りに落ちていった。
『…おやすみ、みるく…』
　そんなハルの声を、最後に聞いたような気がした。

終わり