月光通信
「…ハル?」
『そう。よく分かったね。元気だった?』
 嬉しそうな声が三つ年上の幼馴染みの声と重なった。会わなくなって五年経つ。いくぶん大人びて、低く落ち着いた声に変わってはいたけれど、柔らかい物腰はそのままだ。
「びっくりした…。久し振りだね。何かあったの? 今、どこ?」
『今ね、月のステイション・ホテル。さっき着いたばかりなんだ』
「月…」
 ハルの両親は博士号を持っており、月に民間の研究施設ができた時から月に移住して働いている。当時学生だったハルは地球に残り、全寮制の学校に進学した。それまでは、恋の悩みを相談するほど仲の良かった二人だが、ハルが寮に入ってからは自然と会う機会もなくなっていった。両親と同じように月で働くのが夢だと云っていたハル。その彼が今、月面に立っているという。
『今度は少し長く滞在するつもりなんだ。何かあったわけじゃないけど、新しい気持ちで月面に立ったら、急にみるくと話しがしたくなってね。今日は満月のはずだから、僕の声もよく聞こえるだろう? 君の窓から綺麗な満月が見えるんじゃないかな』
 云われて窓を振り返ると、薄いカーテンの向こうから白い光が差し込んで部屋をぼんやり照らしていた。手を伸ばしてカーテンを開けると、深い夜空に大きな満月が輝いている。
「ほんとだ…」
(満月ってこんなに明るかったっけ…)
 空は確かにどこまでも澄んだ闇なのに、月の光はその闇を突き抜けてみるくを照らしているのだ。温度を持たない光に照らし出された手のひらが自分のものではないような気がして、みるくは指をゆっくり動かしてみる。あの光の中にハルがいるなんて不思議だ。
『みるくは、月へ来たことがあるかな』
 しんと静まり返った夜の世界で、ハルの声は心地よく耳に響いた。
「ううん、まだない。クラスには何人か行ったことある子がいるけど」
『そう。でもきっとみるくはここに来ると思うよ。実は、みるくが月面に立つ夢をみたんだ』
 月に立つ夢 月からの電話… これは何かのキイワードだろうか?
 みるくはさっきから考えていたことを、思わず口にしていた。
「…ハルは、夜空のクジラを見たことある?」
『夜空のクジラ…。言霊を食べて月に唄うと云われているクジラだね? 僕はまだ見たことはないな。でも多分、声は聴いたよ』
「ほんとに?」
『何だ、みるくは信じてないの?』
「ハルこそ、科学者の卵のくせにそんな非科学的なモノの存在を信じてるの?」
 子供じゃあるまいしといった感じのみるくの言葉に、ハルは少し笑った。
『世界は恐ろしく広くて、僕らの到底及ばない大きな力で動いるんだ。僕らが知っているのは世界の端っこでしかない。特に地球科学の最先端であるこの月面都市にいると、それを痛感するね。音のない、しんと冴えた風景は神々しいくらい美しくて、この風景のどこかにこの世界を創った月天王がいてもおかしくないと思えてしまうんだ。科学者の中には、非科学的なものに精神の拠り所を求めている人も多いんだよ』
 ハルは科学者としての見地から宗教や思想などの精神世界を研究していた。簡単に云えば、脳と心の関係だ。けれど、それはみるくの知るところではない。
「ハルはいつ、どこでクジラの声を聴いたの?」
『えっ…』
「覚えてないの?」
『いや、そうじゃなくて…。え〜と…』
 言い淀むハルに、みるくは落胆を隠せない。夜空のクジラはやはりおとぎ話なのだ。
「もういいよ。ハル」
『待って、みるく。違うんだ。なんて云うか、その、カッコ悪い話しなんで…』
「それなら、無理に云わなくていい」
『いや。今まで誰かに話した事はなかったけど、いい機会だからみるくに話しておこう』
「でも…」
『笑わずに、聞いてくれるね?』
「…うん」
 無理に話しを聞き出したかったわけじゃない。でも、ハルの最後の言葉は真剣な響きを持っていて、みるくは頷くしかなかった。

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