その頃。
　月の宮殿は、ただただ静かだった。
　城主の趣向を反映した造りの宮殿は、美しいながらもどこか荒涼とした雰囲気がある。音のない月面世界に凛として建つ姿は、月天王の心情を象徴しているのかも知れない。
　鯨のいない宮殿は、物音一つしない廃虚のようであった。
　だが、そこに月天王はいる。毎日鯨と共に仕事をする執務室に、たった独りで。
　部屋の壁面は宇宙に大きく開いており、何億光年もの彼方から降り注ぐ星々の光りが、研かれた床に映っている。
　その星の海の中央に、ぽつんと月天王が横たわるだ円形の白い椅子があった。
　適度な張りと柔らかさを備えたそれは、椅子といってもベッドに近い形状で、僅かに隆起したひじ掛けに手を乗せた月天王は、全身の力を抜いて水面に浮いているような姿勢で横たわっている。
　白銀の長い髪は無造作に投げ出され、丸みを帯びた椅子の淵から星の海に流れ落ちてゆく。深い輝きを放つはずの黄金色の瞳も今は閉じられていて、月天王は眠っているように見えた。
　音もない。動くものもない。まるで絵画のような、時が止まった空間。
　そこに、変化が起こった。
　ゆらりと。床が大きくうねったのだ。
　初めは大きな波が一つ。しかしそれは次に起こった波とぶつかって、別の波を生み出した。次々と生まれてはぶつかり合い、同調と干渉をくり返す波。いつしか部屋は無数の波に埋め尽くされていった。
　ゆらゆらと揺らめきながら次第に水面は上昇し、底も知れぬ深みへと月天王の身体を飲み込んでしまう。
　とぷん…
　水中は蒼い光で満たされていた。美しいけれど、冴々と冷たい宇宙の海だ。
　月天王の白銀の髪が、蒼く輝く水の中で流れに翻弄されている。
　深く…、もっと深く…。
　沸き上がる真珠の気泡が、誘うように囁くようにその頬を撫でてゆく。
　ひときわ大きなうねりが過ぎると、水の温度が変わっていた。
　ゆっくりと、月天王は金色の瞳を開く。水の抵抗を確かめるように動かした指先を、何かが掠めた。
　視線を動かすと、美しい色彩の魚の群れが目まぐるしく形を変えながら泳ぎ去るところだった。
　天からは光の矢が幾重にも連なって差し込み、様々な形や大きさの生き物が、あるものはゆったりと、またあるものは目を見張る程機敏に流れを渡っている。
　身体を包み込む海流は、柔らかくそして暖かい。
　これが、鯨の生まれた海か…。
　ふわりと、月天王の表情が和らいで。
　月の宮殿に現れた冷たい宇宙の海は、いつしか暖かな地球の海へとその色を変えていた。


「…っ」
　いきなり顎に手を掛けられた鯨は、声こそ上げなかったものの反射的に身を堅くした。
　日輪王の華奢な指先からは体温というものは伝わってこない。だが、ほんの数�Bの距離にまで近付いた端正な顔や、カウチから乗り出した身体からは、ほかほかと陽光のような放射熱が感じられる。緊張はするが、特に不快ではなかった。
　云われた通り黙って日輪王の為すがままになっている鯨の背後から、何やらざわざわと落ち着かない気配がする。
「？」
　誰か止めろとか、誰が止められるんだとか、囁き声でのやり取りがあった後、
「お、お待ち下さい。陽呼さまっ、それはちょっと…やりすぎでは…」
　勇気あるブランカが１人、意を決して隔離空間に入って来た。
「何だ？　私に意見するのか？」
　日輪王は鯨から手を放さずにブランカを睨む。
「いえ…、しかし、神の霊気を直に吹き込むのは、かなり乱暴なやり方だと…」
「五月蝿い」
　日輪王の一言で、ブランカは隔離空間からはじき出されてしまった。日輪王のやることを止めるなんて土台無理だと、分かってはいたのだが。
「ようこさまぁ〜！」
　ほどほどにして下さいね〜
　ブランカたちの願いは、白い霧に空しく吸い込まれていった。
「フン。おせっかいめ。だがまぁ良かろう、やるか止めるかお前に選ばせてやる」
　どうする？と挑戦的に覗き込んでくる視線を、今度は真直ぐに受け止めて
「その為に来たのです。胸焼けが治って元通り仕事ができるなら、どんな治療も受けましょう」
　答える鯨に迷いはない。
「その言葉、忘れるな」
　日輪の王は不遜に云い放った形の良い唇を、鯨のそれに近付けた。
　神の接吻は、人間が愛の行為として交わす口づけとは違う。そこに行き来するのは想いではなく、純粋な霊気。どんな汚れも祓う力があるかわりに、身に余る霊気は魂の大きな負荷となる。
　鯨はもともと人間ではないので、接吻に対する先入観は皆無。注射を待つ子供のように、神妙な顔で瞬きもせず、近付いてくる日輪王の顔を見ていた。
　唇が触れる瞬間。
「私の鯨に何をする」
　白いものが鯨の顔の前を横切った。と、
　ぐいぃ〜っ！
　それは日輪王の顔を掴んで、そのまま後ろに押しやってしまう。
「調子に乗るな、日輪王」
　 ふんっとばかりに日輪王をカウチに転がしたのは、他でもない月天王、その人であった。
「つ…月王様…？」
　何故…と問う鯨に、
「お前もお前だ。こんなやつの口車に乗って怪し気な治療など受けるな。大体何でここに来るのだ。よりによってこの火種大王の元に。どんな目に合わされるか判らんだろうが。まったく。私がお前の体調や行動に気付かぬとでも思っていたのか？　この私がっ」
　憤まんやる方ない様子で、ぶつぶつと文句を並べ立てる。
　転がされ、火種大王などと不名誉な名を付けられた日輪王はというと、怒るどころか笑い出す始末。イタズラが成功した子供のような笑顔で、鯨と月天王を交互に眺めては、愉快だと笑い転げた。
「くくっ…あ〜傑作だ。見たか、鯨？　今の月天王の顔ったら！」
　月天王はまだ笑いが止まらない日輪の王を無視して、鯨の腕を掴んだ。
「帰るぞ」
「しかし…治療が」
「まだそんなことを云ってるのか。こやつの治療など受ける必要はないっ！」
　渋る鯨を引きずるようにして、月天王は帰って行った。
　それを引き止めるでもなく見送った日輪王は、ようやく大笑いを鎮め深紅のカウチの上で大きく伸びをすると、姿の見えないブランカに声をかける。
「おい！　巧く撮れただろうな？」
「…はぁ…」
　小さなモニターを手に再び現れたブランカは、気が進まなそうにそれを差し出した。
「ふっふっふっ」
　これでしばらくは遊べるな、と三日月目で呟く日輪王に、深いため息がもれる。
「いいではないか。月天王が迎えに来たのだから鯨も文句あるまい。旨い酒は手に入ったし、面白いモノは手に入ったし」
　大団円じゃないかと日輪王はカラカラ笑って。差し出された水晶の盃に、鯨の置き土産となった壺酒を注ぐブランカのため息はさらに深くなるのだった…。


「…勝手をして、申し訳ありませんでした…」
　月の宮殿に戻った鯨は、むっつりと黙り込んだままの月天王に頭を下げた。
「しかし、わたしは人間の弱い心に蝕まれているのです。このままでは今までのように仕事をこなすことが出来なくなるかもしれません。月王様の…お役に立てなくなるかもしれない。そうなったら…」
　もうおそばにはいられない、という言葉を飲み込んで鯨は唇を噛む。
「かもしれないなどと、不確かな予測で勝手に落ち込むのはお前らしくないな。だが、それが人間の心に蝕まれている証拠でもある。まぁ、お前が思っている程には重症ではないが」
「わたしは…どうすれば良いのか分からないのです」
　やっと素直に弱音を吐いた鯨に、月天王はふっと表情を和らげた。
「大丈夫だ」
　そのたった一言で、凍り付いていた鯨の心がじんわりと解けてゆく。
「私に全てを委ねていい。今だけはな…」
　月天王の言葉が終わらないうちに、鯨の視界は蒼いもので満たされていった。
「月王…さま…？　これは…」
　何が起こったのかを確かめるまでもなく、心が先に反応する。
　懐かしい…！
　天空を翔るのとは違う、大きな浮力と抵抗。それは地球の海だった。
　力強い流れに深みへと運ばれて、鯨は本来の自分の姿を取り戻す。
　流線形の巨体で水を切る感覚が心地良かった。鯨は思う様広大な海を泳ぎ回り、その感触を味わい尽くす。
　しなやかな尾びれで強く水を蹴り、海底から光射す海面へ急上昇して、
　ザァ…ッ！
　大量の水しぶきと供に宙を舞い、再び海中へ。
　水の音、魚たちの群れ、生命あふれる暖かな海洋。全てが懐かしかった。
　自分の為だけに泳ぐのは何千年振りだろう。
　身体が海と一体となるような感覚に目眩さえ感じて、鯨は歓びの声を上げていた。

「たまには我侭な己を解放しても良いのだ。私はそんなことでお前を手放したりはしない」
　意識を失い、つかの間の夢に溺れる鯨を横たえながら、月天王は呟いた。
　己に課した使命の為なら、どんな苦労も厭わない。鯨は誇り高い魂の持ち主だった。
　だからこそ、この天界での悠久の時間の中でも自我を保っていられるのだ。だが、それは諸刃の剣でもある。
　月天王は、鯨が胸に長い間押さえ込んでいた望郷の憶いを解放し、巣食っていた影を祓ったのだった。
　穏やかな表情で寝息を立てる鯨を見下ろし、起こさないようそっと額に唇を寄せる。
「おやすみ」
　鯨は幸せな夢の中、額に柔らかな温もりを確かに感じた。

　月の海に轟く唄声。完璧なフォルムで滑るように流れを渉る鯨の姿は、雄大で力強く、そして何より美しい。
　月天王こそが他の誰よりも『永遠』を願ってることを、知る者は少ない…

おしまい