「夜空のクジラ」が人の発する言霊を喰らい、白銀の髪の月天王に唄うと
　その深い唄声に反応して月天王の身体は月光色に輝きだし、
　やがて柔らかな光の波が、静かに世界を癒してゆく。

　それは月の宮殿で毎日くり返される当たり前の、そして、美しい風景だった。
　もう何千年もこうして過ごして来たし、これから何千年もこうして過ごすのだと、
　この美しき日常は永遠に続くのだと、鯨は半ば祈るような気持ちで信じていた。
　けれど…
（何だろう…　胸が、苦しい…？）
　それは微かな予感。
　人間の負の感情が凝った言霊を喰らう度、鯨は胸のつかえを感じるようになっていた。以前は何の抵抗もなく飲み込めていたものを…。
　永遠の時間や無限の空間などというものが比喩でしかあり得ないように、大喰らいで名を馳せる「夜空のクジラ」が食べる言霊の量にも限界はあるのだろうか。
　例え天界の住人であっても、望む『永遠』や『無限』を手にすることは難しい…。
　鯨は無意識に胸の辺りを押さえて、ひたすらに天空を翔ていた。


　今日も鯨はいつものようにたらふく「言霊」を喰らい、月天王に唄った。
　量も質も申し分ない。たくさんの言霊を食べたし、巧く唄えたはずだ。
　鯨は閉じていた目を開け、闇色の瞳で様子を伺う。
　唄の余韻にまだ淡く輝いている月天王は、身体を預けていた白く大きなソファーから身を起こした。形の良い眉をひそめて鯨を見る。
「…お前、具合が悪いのか？」
　内心ぎくりとしたものの、
「いいえ。そんなことはありません。…何か、お気に召しませんでしたか？」
　鯨が動揺を表に出すことはなかった。
「ん〜、気のせいか…？　何となく、こう…物足りない感じがしたのだが…」
　確かめるように覗き込んでくる月天王の金色の視線を避けるように、鯨はさり気なく距離を取り、
「では、再び言霊を喰ろうて参りましょう」
「え？　いや、そうじゃなくて…、あっ、待て！」
　月天王が止めるのも聞かず、そそくさと部屋を出てしまう。
　普段なら、月天王に不審がられるような言動は極力控えているのだが、唄声に影響する程の体調不良など今まで経験したことがなかった。流石の鯨も冷静でいられない。
（どどど、どうしよう！　どうしよう、どーしよぉぉー！）
　一見、永遠の安らぎが約束されているように思われる天界も、実のところ、仕事のない者に居場所を与える程甘い世界ではないのだ。
（もしもこのまま言霊を食べられなくなってしまったら?!）
（もう、月王様のお役に立つことができなくなってしまったら…！）
　天界を追われれば輪廻の環に戻ることになる。そうして例え生まれ変わることができても、それはもう今の自分ではない。自分が自分でなくなる生まれ変わりは、鯨にとって意味のないことだった。
（どうしよう。どうしたらいい…？）
（月王様のそばを、離れたくない…！）
　どんどん怖い考えになってゆく自分を止めることもできず、鯨はやみくもに空を翔た。
「……」
　がらんと静まり返った広い部屋に１人残った月天王は、小さく息を付くと再びソファーに身体を沈め、何事かを思案するようにゆっくりと目を閉じた。


「…ほぅ？　これはまた珍客だな」
　日輪王が住まい、大勢のブランカが働く天空の城。うらうらと陽光が差し込む城内にはいつも、のほほ〜んと穏やかな空気が流れている。
　そこへ突然黒衣の鯨が現われたものだから、長閑だった城内は一変、騒然とする。
「月天王と夜空のクジラが喧嘩した?!」
「鯨がまたつまらないイタズラを仕掛けて月天王を怒らせたのか？」
「いや、月天王が始めたくだらないお遊びに鯨が付き合いきれなくなったのかも？」
　月天王が鯨だけを連絡もなく寄越すことが今までなかったために、やれ家出だ謀反だ三行半(←？)だと、遠巻きに様子を伺うブランカたちは好き勝手に囁き合った。
　深紅のカウチに寝そべり、ベルベットのクッションを抱いた日輪王は、退屈そうにバタバタと足を動かしながら、憮然と立ちつくす鯨を見る。子供じみた仕種とは裏腹に、その視線は鋭かった。
「で？　私に一体何の用だ？　夜空のクジラ」
　日輪王の燃えるような緋色の髪も、まだあどけなさの残る少女の姿も月天王とは少しも似ていないのに、本質を映すという瞳だけは月天王と同じ金色で。鯨はその視線を真直ぐ受け止めることができずに、俯いたまま重い口を開いた。
「…お願いしたい事が…あるのです。が、ここでは話せません。お人払いを…」
　豊かな緋色の髪を焔のように揺らして、日輪王は上半身を起こした。
「アポなしで勝手に押し掛けて来た上に我侭な奴だなー」
　大袈裟に眉をしかめる日輪王に、ブランカが何事かを耳打ちする。と、日輪王の表情がぱっと明るくなった。
「まぁ、それなら聞いてやらんでもない。…ブランカ、盃を」
　華奢な指先を僅かに振ると、周りでかしましく囁いていたブランカたちの声と姿が一瞬でかき消える。
　辺り一面が真っ白な濃い霧で覆われて、上も下も分からない状態だ。ただ一つ、日輪王の深紅のカウチだけが、鯨の前に絶対的なものとして存在していた。
「これでいいだろう。お前は呑む気分でもなさそうだから、勝手にやらせてもらうぞ」
　いつの間にか用意した水晶の盃を手に、鯨が持参した壺酒をカウチの横にデンと据えて、早くも呑む気満々の日輪王。
「さぁ、遠慮せず何でも云ってみろ。んん？」
　鯨の壺酒は、神様をも魅了する美酒であった。上機嫌で盃を傾ける日輪王とは対照的に、鯨はにこりともしない。
　ついと顔を上げ、大真面目に告白した。
「実は、胸焼けがするんです」
　ぐふッ！
　かろうじて酒を吹き出すのは堪えたものの、鼻で酒を味わう羽目になった日輪王は、大急ぎで口直しの盃をあおる。
「…っく。お、おまえわぁ〜、真面目な顔して冗談を云うな」
「冗談ではありません」
　鯨の態度はいつもと変わらず慇懃無礼であったが、その瞳は押さえきれない不安で揺らいでいる。日輪王は盃を傾けながら、改めて鯨の全身を観察した。
　艶やかな黒髪にも夜空を映したような漆黒の双眸にも濁りはない。が、よくよく見れば確かに、胸の辺りがぼんやりと曇って見える。
　さもありなん。
　天界で「夜空のクジラ」の大食・悪食を知らぬ者はいない。
　もともと地上の生き物であった鯨は、良い意味でも悪い意味でも言霊の波長と相性がいいのだ。誰もが扱いに困るような、深い悲しみや憎しみ・妬みなどの負の感情が凝った言霊でも、平気で毎日大量に喰らい続け、美しい唄声に変えてしまう。もし、僅かづつでもそれが鯨の身体に残留するとしたら、長い年月を経て何らかの影響がでないとも限らない。
「…なるほど。それで、私にどうしろと？」
「治していただきたい。創世の三神と謳われたあなたならば、わたしを治すこともできるはず」
「何故私に？　月天王に頼めば良いだろう。癒しはやつの得意技だ」
「…これは、わたしの弱さが引き起こした失態。月王様には…」
「知られたくないのか」
　意地っ張りめ。
　それがこの事態を招いたことを、鯨は自覚していないようだった。
　鯨は月天王に美しい唄を聴いて欲しいと願うあまり、無意識に一番汚れた言霊を唄うのを避けていたのだろう。取り込んだまま唄われなかった人間の負の感情が、暗雲となって鯨の心を侵したのだ。
　このまま放っておいても、そのうち月天王が何とかするだろうことは予測できる。鯨は仕事が出来なくなる事を恐れているようだが、月天王にとっては鯨の唄を生で聴くことの方が、言霊の浄化よりも重要なのだということを日輪王は知っていた。
（…何だかなー。こいつ、わざわざ惚気に来たんじゃなかろうな？）
　ムショーに腹が立って来て、城から蹴り出してやろうかとも思った日輪王だが、ふと思い直し、おもむろに盃を盆に戻す。
「…いいだろう」
「治していただけるのですか？」
「胸焼けの治療なぞ、創世の三神には造作もないこと。苦しゅうない、もっと近う寄れ」
　ひらひらと手招きされて、鯨は深紅のカウチの前に膝をついた。
「どうすれば？」
「黙っていろ…」
　日輪王はにやりと不敵に笑う。そして、鯨に魔の手が延びる…

(あ、神の手か…)