笑い過ぎて座椅子ごとひっくり返った日輪王は、自分と一緒に小さな玻璃玉が転がったのに気付いた。
「…、フム」
　むっくり起き上がると、
「これ、な〜んだ？」
　ニヤニヤ笑いながら、指先につまんだ玻璃玉を自分のグラスに落とす。
　小さな水音をたててグラスの底に沈んだそれは、いくつもの気泡となって溶けてしまう。後には琥珀色の液体が、何事もなかったように揺れていた。
「えぇっ！　そ、それはっ…」
　慌てるキララの目の前で、日輪王は一気にそれを飲み干してしまう。
「きゃ〜っ！　飲んじゃったよぅ」
　空になったグラスをにぎったままの手で、キララをビシッと指差した。
「キララ！　お前自殺しようとしただろう。自殺は大罪だぞ。わかってるのか？」
　もしかしなくても、日輪王ってば酔ってる〜
「ひぇ〜。ごめんなさい〜、本気じゃなかったんですぅ〜」
「余計悪いわっ！」
　どかっ！とちゃぶ台に胡座をかいて、キララに詰め寄る。
　ここってもしかして、地獄なんじゃないの〜？
　救いの神は、横で聞こえない振りして自分のグラスを傾けている。
　酔っぱらい神様を相手にどうしろって云うんだ。夢だからってあんまりだ。
「だって〜、時々生きててもしょーがないんじゃないかって思っちゃうんだもん。そーゆーのってもうどうしようもないじゃん。でも、いっつも最終的にはやめるもん。だから許して下さい〜」
　逃げ腰のキララに絡んでいた日輪王は、不意に邪気のない笑顔を見せた。
「いつも何かがお前を止めるんだろう？」
「！」
　そうなのだ。
　大抵はそんな行動をおこす前に思い留まるし、途中で気が変わることも少なくない。理由は様々で、必ずしも誰かが止めてくれる訳ではなかったけれど。
　例えば、電話がかかってきたりとか。
　古い手紙や写真を偶然目にして、とか。
　知らない人の笑顔や、ほんの小さな優しさに接した時とか。
　通りすがりの枯れ木に新芽の膨らみを発見して、急に元気になったこともあった。
「お前が、まだ自分の望む自分になれていなくても、世界はお前に生きろと云っているのだ」
　つかの間放心していたキララは、日輪王の言葉で我に返り、気恥ずかしさに頬を染めた。
　心臓はまだバクバクいってるけれど、何だかすっきりしたような気がするのはどうしてだろう。
「ほらみろ、月天王。私の勝ちだ。そう簡単にお前を死神になんかしてやらんぞ。お前がちょっとがんばったくらいで、脳天気なこやつが自殺なんかするものか」
「…！　それって…」
　日輪王の言葉の意味を確かめたくて、視線が月天王を探す。
「？　あれ？」
　けれど、急速に濃い霧が立ちこめてきて、辺がよく見えない。
「そうだな。今回は私の負けだ。悔しくはないが」
　一瞬だけ視界に捉えられた月天王が、とても綺麗に笑っていたのは錯覚じゃないと思う。
　目の前にいるはずの日輪王さえ白く煙って見えなくなった時、キララはお茶会の終焉を知った。
「もう、終わりなの？」
　キララの言葉に
「聞き残したことがあるか？」
　近くで日輪王の声が応えた。
　聞きたいことも話したいことも、まだたくさんあったけれど。
「日論王って…」
　キララは言葉を選ぶ。
「瑠璃王と夫婦？」
　ピンッ！
「てっ」
　霧に中から現れた日輪王の指先で鼻の頭を弾かれた。
「笑わせてくれる。お前みたいに妄想逞しい子供がいたら飽きなくて楽しいかもしれんな」
　笑いを含んだ声は、優しい余韻を残して遠ざかってゆく。
「…あなたの子供でも良かったって…そう思ったんだ」
　もう言葉は届かないかも知れないが、想いは多分伝わっているだろう。

　上も下も右も左も真っ白な世界。ブランカの声だけが聞こえてくる。
「これからあなたを元の世界へお帰しします。記憶の操作などはいたしませんが…」
　逡巡するような気配の後、
「その…、ここでの事をあまり流布されませんようお願いします…」
　控え目に釘をさした。
「分かってる。白昼夢を云いふらすほどバカじゃないよ」
「ありがとうございます。それでは、これにて…」
　あんな神様に仕えてるんじゃ、気苦労が絶えないのは明白だ。キララはちょっぴりブランカに同情した。
　神様ってろくでもない。
「口悪いし、らんぼーだし、嘘つきだもん。お茶会だなんて云って、お酒飲んだり、酔った振りして酔ってなかったり」
　ホントとんでもなくって、ろくでもなくって…
「けっこう好きかも」
　キララは落下する自分を感じていた。


　ばふっ
　目に入ったのは鮮やかなオレンジ色。
　建物 階分の高さを飛び下りた衝撃は思いのほか大きくて、キララは暫く動けなかった。
「〜っ！」
　エアクッションに大の字になったままのキララに、明るい声がかけられる。
「気分はどう？」
　顔を上げると、にこにこ笑顔でエンが手を差し出してくれていた。
「天国行っちゃった気分」
「それはスゴイ。あはっ、ハナの頭擦りむいてるよ。ね、面白かったでしょ？」
　支えてくれるエンの腕は暖かくて、力強い。
　キララはゆっくり起き上がると、赤くなった鼻を摩りながら笑った。
「うん。もういいってくらい、面白かった！」
　ろくでもない神様たちが見つめいてくれているこの世界。まだまだ捨てたもんじゃない。
「ありがとう。今日の事、忘れない」
　キララの言葉に、エンは極上の笑顔を返してくれた。

-終-