月のピアノ
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「お前が気にするようなことは何もない。自慢にもならんことだから、黙っていたが…」
 月天王が立ち止まると、床から植物が生えるように椅子が現れた。先程より背もたれの角度が深く、形も直線的で、安らぐための椅子ではないことがわかる。
「ちょっとした道具を使っていたのだ」
 鯨が見守る中、その椅子に座った月天王は、両手を浮かせるように持ち上げた。
 同時に、何もなかった床から背の高い箱が現れる。さらに箱の後ろからは、次々と蔓のような管が生え、天井に向かって成長していった。初めは整然と上に向かっていた管も、数が増えるにつれ曲がったり捩じれたり、月天王を抱き込むように複雑な形になってゆく。
「これは…?」
 ようやく成長の止まったものを見ても、鯨にはそれが何なのかわからなかった。
 奥行きの浅い箱の後ろから生えた太さも長さもまちまちな管が、月天王を取り巻くように部屋の床から天井までを埋め尽くしている。いびつに曲がり捩じれているのに、どこか植物的な柔らかさで、大地を這う古木の根を思わせた。
「見てわからんか? ピアノだ」
 月天王が箱を開くと、中から水晶の鍵盤が現れる。
 ピアノ? これが? どっちかって云うと、パイプオルガンじゃ… ていうか、これ、音出るのか?
 混乱する鯨をよそに、月天王は鍵盤に指をおいた。
「あ…」
 鯨の心配は杞憂に終わる。思いがけず澄んだ音が、その『ピアノ』から響いたのだ。
 月天王の長い指が鍵盤を優しく撫でる度に、開いた管の先から『音』が零れる。
 澱みのない、どこまでも響く『音』。
「この音に、負の感情で漕ごった言霊を融かしていた」
 月天王は、シンプルな和音でゆるやかな旋律を奏で続けた。
 ピアノの音は鯨の声とは違うけれど、本質は近いものがあるのだろう。今は暗い夜の地球が、僅かに反応してさざめいている。
「月王様…」
 鯨が呼ぶと、月天王は静かに手を止めた。音の余韻が、波のように足元を流れて行く。
「お前ならわかるだろう。これが、どれほどの効果もないことを」
 月天王のピアノは、美しい音で漕ごった言霊を融かすけれど、今日の複雑に澱み肥大した世界の前では、余りにも無力だ。
「私にはお前が必要だ。夜空のクジラ…」
 振り向いた月天王の前に、鯨は膝を折り深く頭を垂れた。
「…月王様。もう一つだけ我がままをきいていただけるなら、今しばらくそのピアノを奏でてはくださいませんか」
 日輪王が『火種』だとすれば、月天王は『火消し』。激しく乱れた心を、静かに解きほぐしてくれる。
 日々を闘う全てのものに、安らぎは必要だ。それは、天界に住む者たちでもかわらない。
 再び溢れ出る音の海に『夜空のクジラ』は、ひととき浸るのだった。





 その頃、日輪王の城では。
「おや、珍しい。月天王のピアノですか…」
 ブランカは足を止めて耳を澄ませた。
「ふん。おおかたクジラとケンカして、ストライキでもされてるんだろう」
 ケンカの火種を蒔いた当の本人は、深紅のカウチに長々と寝そべってブランカが運んできた冷たい飲み物をストローでチュウチュウやっている。一仕事(騒ぎ?)終えた後で、少々お疲れのご様子。
 燃えるような緋色の髪に、月天王と同じ金色の瞳。まだ幼さの残る少女の姿をしてはいるが、これでも月天王とは鯨より長い付き合いだ。
「何千年振りでしょうか…。良い音ですねぇ」
 お盆を抱きしめて聞き入るブランカに、日輪王は足をバタバタと動かしながら云った。
「ズルイやり方だ。あの音で瑠璃王に夢を見せて、その力を利用している」
「沈黙の瑠璃王の力を利用することなどできるのですか?」
「私と月天王にはできる。 見ろ、海がざわめいているだろう。クジラが生まれる前、奴はあれで音を増幅することで何とか仕事をこなしていたのだ。瑠璃王を使うとはまったくけしからん。私はそんなことしたことないぞ」
 貴方がやったら瑠璃王を起こしちゃうでしょ。と思いつつ、ブランカは苦笑する。
 その時、シンプルだったピアノの和音にもう一つ別の音が重なった。
「…これは…。どうやら仲直りしたようですよ」
 良かったですね、とにっこり笑うブランカに、ナニがそんなに嬉しいんだと日輪王は大あくびで返す。
 二つの音は高く低く交叉しながら世界を翔け巡り、その共鳴音はどんな心も穏やかにした。それは長い時間ではなかったけれど…。
「フン…。つまらん…」
 文句を云いながら、日輪王は浅い眠りに落ちてゆく。
「おやすみさないませ…。陽呼様」
 日輪王の華奢な手から、ブランカがグラスをそっと抜き取ると、深紅のカウチは日輪王の身体を柔らかく包むように形を変えた。
 『火消し』の奏でる旋律は、闘い疲れた火の玉ガールをもけだるい微睡みにさそうのだった。


終わり

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