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月のピアノ
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| しばしその姿に見入っていた鯨は、少し切ない気分になって月天王に声をかけた。 「月王様。あれからずっと気になっていたのですが」 「ん？ 何だ？」 月天王の金色の瞳に黒衣の鯨が映る。こんな時、一介の鯨であった自分が、月天王に請われたとはいえ、今このような姿で仕えているのが信じられなくなるのだった。 「以前はお一人でいらしたのですか？ わたしが来るまでずっと？ それとも誰か…」 自分が誰かの代わりであるかもしれないなどと、考えるだけで胸が痛む。鯨は後の言葉を飲み込んでしまった。 「…何を云い出すのかと思えば」 月天王はあごから手をはなすと足を組み直し、まっすぐ鯨を見据える。 「お前を呼んだ時に云わなかったか？ お前ほど美しい声を持つ者に逢ったことがないと」 見つめ返せなくて、鯨はわずかに視線を逸らした。 「…おっしゃいました」 月天王の眉間にしわが一本刻まれる。 「後にも先にもお前ほどの声を持った者はいない。だからこそ、私は禁を侵してお前を連れて来たのだ。知ってるだろう?」 「…、存じています…」 しわはニ本になった。 「お前より出来ないやつと、私が手を組むと思うか?」 「…。思えません」 しわは…、怒声にかき消された。 「だったら、つまらんことを聞くなっ！」 「しかし月王様…」 鯨もここで引くわけにはいかない。 「わたしが生まれるずっと以前にも、大きく世界の霊気を乱す出来事が幾度かあったと聞いています。日輪王の云う通りなら、その時はお一人だったのでしょう？ 何故、今になってわたしを使うのですか？」 云いながら自分の言葉に胸が痛んだ。無意識に胸を押さえてしまう。 「…本当にわたしは、必要なのですか？」 鯨は物心ついたころから夜空に輝く白銀の月が大好きで、月に唄ってばかりいた。その声が類い稀な美しさで特異な波長をもつことから月天王の目に止まり、天界へ呼ばれることになったのだ。その時は本当に嬉しくて、それまでの全てを捨てることも、輪廻の輪から外れることも、何も怖くなかったし何も惜しくなかった。月天王に召され、月天王のためだけに全身全霊をかけて唄う、それが鯨の幸せであり望みであったのだ。けれどもそれが、月天王には大して役に立たないことだったのだとしたら…。もう今までのようには唄えないと、鯨は思った。 鯨の問いに、月天王は憮然とした表情で押し黙る。さっきまであれ程似合っていた眼鏡が、今は冷たくその感情を隠していた。 じっと答えを待つ鯨に、月天王はくるりと背を向ける。 「月王様…」 「…、お前は…、本っ当〜にくそ意地が悪い」 「…は？」 大きな椅子は月天王をすっぽり包んでいて、鯨には声しか届かない。 「私は何度も尋ねただろう？ お前に、ここへ来たことを後悔してはいないかと。何度も何度も尋ねただろう？ その度にお前は、後悔していないと、私の傍で唄うのが幸せなのだと云ったではないか。それなのに、この私がお前を必要としていないと、本気で思うのか？ それともこれは新手の嫌がらせか？ 私をからかっているのか？」 「月王様…、それでは…」 鯨が一歩椅子に近づくと、椅子は音もなく回転して不機嫌な顔の月天王が現れた。表情を隠していた眼鏡がなくなっている。金色の瞳には、拗ねたような揺らぎが見て取れた。 「私はお役に立っていると、信じていて良いのですね？」 その瞳を覗き込むように鯨が笑いかけると、月天王はつんと横を向く。 「お前のように、唄えるやつは他にもいるだろう。もっと可愛げのあるやつとか、もっと素直で明るいやつとか、もっと話しの面白いやつとか、え〜と、それから…」 「つ、月王様…？」 「お前より大食いなやつもだ。だが」 云いながら、キッと鯨を睨んだ。 |