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月のピアノ
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| 鯨がそのブランカと遭遇したのは、よくある偶然だった。 一般には、月天王が夜を日輪王が昼を司るように考えられているが、月は日中に昇ることがあるし、ブランカは夜も働いている。両者の活動時間は完全に分かたれているわけではなかった。そんな訳で、夜空のクジラがブランカと出会うことは特に珍しいことでもない。 あの日、鯨がいつものように、世界の霊気を乱す負の感情がこもった言霊を食べるべく夜空を翔ていると、 「忙しそうですね」 と、ブランカの方から声をかけてきた。 向こうはちょっとした挨拶のつもりだったのだろう。にっこり笑顔で手なんか振ったりしている。ところが本気で忙しかった鯨は、平和そうなその笑顔に逆にカチンときてしまう。もともと月天王以外には愛想のない鯨。嫌みの一つも云ってやりたくなった。 「最近、どこかの神様が悪戯に火種をまくせいで世界の霊気が乱れている。おかげで月王様は休む暇もない。お前、お目付役ならちょっとは止めたらどうなんだ？」 ところが相手はブランカ。俗に云うところの『天使』ってヤツだ。見かけはヤワでも、中身は食えない。 「あの方は私達の云うことなど素直に聞いてはくれませんよ。第一、あの方のすることなら必ず意味があるはずです。私達には理解できないようなことでも、ね」 天使の笑顔でそう返す。向こうは向こうで日輪王第一主義なのだ。 「そーかね。お前に云っても無駄だったな。失礼する」 毒気を抜かれた鯨は、冷ややかに一瞥して踵を返す。その背中にブランカがかけた言葉が、天界に新たな火種を蒔いた。 「そう云えば、先日も月天王のことを気づかっていらっしゃいましたよ。『以前は一人でも仕事をこなしていたのに、最近はクジラの手を借りても足りないなんてもうお歳なのでは』と。どうかお大切にとお伝えください」 「何ぃ〜っ?!」 椅子から立ち上がって叫んだのは、他ならぬ月天王。 「日輪王のやつ〜！ ぬけぬけとよくもそんなことをっ！」 ブランカは嘘をつかない。彼らの言葉はそのまま本人の言葉として伝えられる。実際、当代の日輪王は代替わりしてそれほど経っていないので、比べれば月天王の方が在位が長いのは確かなのだ。しかし。 「神様に歳が関係あるかっつーの！」 頬を上気させて怒る月天王に同意するように鯨が続けた。 「わたしもこれは聞き捨てならないと、つい云い返してしまったのです。『当代の日輪王が火種を蒔いて喜ぶお子さまだから、月王様の仕事が増えるのだ』と」 神様たちの外見は所詮かりそめのもの。彼らの容姿を決定するのはその本質であって、過ごした年月に左右されることはない。その気になれば姿を変えることさえ可能だ。代替わりを機にその姿も一新した日輪王のように。けれど。 「全くその通りだ。お前は悪くない」 どっかり椅子に座り直し、おさまらぬ怒りに小鼻を膨らましている月天王を見れば、例え月天王が齢千年の老人の姿をしていようとも鯨はやはり可愛いと思うだろう。鯨が人の姿をしていても鯨であるように、誰も自分以外のものになることはできないのだ。 「コラ。なぜそこで笑う？」 上目遣いに睨んでくる表情さえ愛しく思ってしまう鯨は、いっそ立派（なビョーキ？）と云えるかも知れない。 「いえ。月王様はこんなにお美しく若くて元気でいらっしゃるのに、日輪王は何を見ているのだろうと思ったのです」 「フン。日輪王は私のことなど見てはいないさ」 鼻から短く息をはいて、月天王は椅子に深く身をゆだねた。主人の意のままに形を変える椅子は、それを柔らかく受け止めて角度を浅くする。 月天王は腕を組み、あごの辺に手をやった。考え事を始めたらしい。どうせ良からぬことを考えているのだろうが、眼鏡効果でそんな姿も知的に見える。（だから、それがビョーキだっての） |