月のピアノ
-1-
 月天王。
 『日輪王』『瑠璃王』と共に世界を創ったと云われている『創世の三神』のひとり。
 美しくも荒涼とした月の宮殿に住まい、月光色に輝く白銀の髪と金色の瞳を持つ絶世の美形であると云う。
 月夜の天を統べる者という名が示す通り、月光と深く影響し合う霊気を浄化・制御することで世界の安定をはかるのがその仕事。霊気を乱す言霊を好んで食べ、美しい声で月に唄う『夜空のクジラ』を使い、日夜乱れた霊気と格闘している。
 生命が発する美しい霊気と生命が奏でる美しい音楽をこよなく愛し、傷付き乱れた心を癒すと云われるこの神が人前に姿を現わすことは少ないが、人々が想い描くその姿はあくまでも清麗・高潔であり、月の聖域である宮殿に招かれざる者が立ち入ることは叶わないのだと、その存在は信じ続けられている。
 月に巨大なステーションが建つ新世紀のこの時代にあっても、人々は月面の神々しいまでに冴えた無音の風景の中に、漠然と「神」を感じるのだ。

 もっとも。イメージと実物がもの凄まじくかけ離れてるからって、月天王を責めてはイケナイ。人生が色々あるように、神様だってイロイロあるんです。


「おい鯨。お前、日輪王にナン癖つけたそうだな」
 一日の仕事を終え執務室を辞そうとした黒衣の鯨は、不意にかけられた声に足を止めた。
 普段は月天王の命を受け『夜空のクジラ』として月夜の空を駆け回る彼も、宮殿にいる間は黒衣・黒髪の人の姿で月天王に仕える身。乱暴な言葉にも慌てたりすることはない。
「人聞きの悪いことを。一体何の根拠があってそんなことをおっしゃるのですか?」
 そう云って、ゆっくりと声の主へ向き直った。
 執務室には基本的に何もない。必要なものはその時にだけ現われて、用がなければ消えてしまう。入り口や窓さえ今は見当たらない。鯨の漆黒の双眸に映るのは滑らかな曲線で構成された大きな椅子の背中だけだった。
「とぼけても無駄だ。日輪王本人から天界メールが来てるぞ」
 その椅子が滑るように半回転して声の主が現われる。まず目を引くのは月光色に輝く長い髪。その白銀の髪を無造作にかきあげ、長い足を優雅に組んでいるのは、他でもない月天王その人であった。
「メールって…またそんな。…月王様、その眼鏡は何です?」
 こないだまでは天界携帯電話で、その前は天界伝書鳩。神様達の流行は、鯨には理解しがたいウェーヴでやって来るらしい。だが、それ以上に鯨の注意を引いたのは月天王の金色の瞳を縁取る銀の眼鏡だった。
「これか? 気分だ。気分。流行りのメールをするのに、まずは形から入らねばと思ってな」
 ちょっと知的に見えるだろ?と、形の良い指先で華奢なフレームを持ち上げてみせる。
 神に仕える鯨の理想は『月天王の信頼に足る存在』であること。それには、こうしてわざとはしゃいだりふざけたりする月天王に、冷静に対応し鋭くツッコミを入れることも大切なポイントだった。
 今だって、天界メールはフルカラー3 の大画面なのだから、それ(眼鏡)って意味ナイでしょう(そもそも神様に眼鏡が要るのか)と鯨の理性は云っている、のだけれど。
「…、お似合いです。とっても…」
 見慣れない眼鏡ヴァージョンの月天王にときめいてしまう鯨は、筋金入りの月天王フリーク。鉄壁のポーカーフェイスで隠してはいても、眼鏡の月天王にうっかり見とれてしまう。
「で? 何で日輪王を怒らせるようなことを?」
 はっと我に返ると、先刻よりずっと近くに月天王の椅子が移動している。おそらく度など入ってはいないのだろう。眼鏡越しの瞳は僅かなひずみもなく、金色に輝いて美しかった。が、多分に面白がっているのが見て取れて、鯨は内心舌打ちする。形勢が不利だ。このままでは遊ばれてしまう。
「…、わたしは、そんな覚えは、ありませんってば」
 体勢を立て直すべく、半歩ほど下がってみたりするのだが。
「日輪王付きのブランカが証言している。お前が『当代の日輪王はお子さまだ』と云ったとな。ヤツは嘘がつけぬ。さぁ、何があったかちゃんと云え。でないと、日輪王のいびりから守ってやらんぞ? んん?」
 更に接近してどアップで迫る月天王から逃げられない。今日は日が悪いようだ。鯨はため息をついて、降参した。
「本当に、怒らせるつもりなどなかったのです」

-1-

進む

目次へ戻る