「ねぇ、キララ」
　エンの声に、キララは顔を上げた。
「さっき僕が、ここからじゃ死ねないって云ったの、覚えてる？」
　脈絡のない流れに、キララはエンが何を云おうとしているのか分からないまま、ただ頷いた。
「試してみようか」
　言葉の意味に思い至って、弾かれたように立ち上がった時には、エンの身体はゆっくり後ろへ傾き始めていた。
「なっ…！」
　まるでスローモーションのように。エンは両手を広げたまま、空を仰ぐように倒れてゆく。
　今、手を伸ばせば届くかもしれない。
　なのにキララは、指一本動かすことができなかった。
「わぁぁっ！　何やってんだ！　バッカヤロ〜ッ 」
　怒声と風圧を伴って、キララの横を黒い影が駆け抜ける。だが。
　影が屋上の縁に飛びついた時には、エンの身体はもう見えなかった。
　キララは茫然として立ち尽くす。何が起こったのか理解できない。
「バカッ！　何でお前が飛び降りるんだ！　戻ってこい！　今すぐッ！」
　黒い影の男は、下でぺちゃんこになってるかもしれない相手に向かって怒鳴っている。男の行動も言動もキララには訳が分からなかった。
「何…？」
　キララの呟きに、男はやっと振り向いた。肩より長い黒髪を一つにくくり、色の濃いサングラスをかけ、黒いシャツに黒いジーンズ。靴まで黒い。長身だが細身でひょろりとした体つきだ。黒ずくめでも変な威圧感はない。
　キララを見て、男は小さく舌打ちした。サングラスを取って胸ポケットにしまいながら近づいてくる。
「…あぁ、もう。泣かせちまって」
　声が、思いがけず優しかった。
　その声でキララは自分が泣いているのに気付く。気付くと余計に止まらない。
　泣きじゃくるキララの扱いに困ったのだろう。長身の男は身体をかがめ、そっと頭を撫でてくれた。大きな手のひらは温かくて、やはり優しかった。
「な、んで、こんな、こと…」
　キララの言葉は嗚咽で途切れがちだ。
「泣くな。大丈夫だから」
　何が大丈夫なんだッと云ってやりたかったが、声にならない。
　震えるキララの肩を抱いて、男は下を見るよう促した。キララは嫌がって首を振る。
　男は仕方なく一人で下を覗き込み、再び怒鳴った。
「コラッ！　遊んでねぇで、とっとと戻って来いっつってんだろ？」
　それに返すような声が聞こえた気がして、キララは息を飲む。
　意を決して、男のシャツを伸びる程きつく握りしめると、そうっと下を覗いた。
　すると。
「ね〜っ！　死ねないでしょ〜！」
「?!!」
　学校の建物は鉄筋の四階建て。普通、この屋上から飛んだらまず死ぬ。けれど、ここの一階部分は張り出し露台になっていて、しかも今はそこに鮮やかなオレンジ色の巨大エアクッションが置かれていた。
　エンはまだそのクッションの上で、ポヤポヤ遊んでたので男に怒鳴られたのだった。
「屋上にいるお前を見つけた時、あいつがお前んとこ飛んでったから、オレはあれの用意してたんだよ。幸いここは学校だったからさ、ああいう備品はそのまま残ってたんだよな」
　エンはキララに話し掛けることで、クッションが膨らむまでの時間を稼いでいたのだ。
　男が経緯を説明してくれても、キララはポカンとしたまま。もたこたとクッションを降りるエンの様子を目で追っている。
「ま、それにしたって、あいつが飛び降りる必要はこれっぽっちもなかったと、オレは思うぜ」
　エンの破天荒な行いに怒りながら男は、お前を怖がらせちまって悪かったな、と頭を掻いた。そんな男の気持ちも知らず、エンは無邪気な笑顔でキララに手を振っている。
「キララも、飛んでみるぅ〜？」
「何ィ〜 ?!」
　素頓狂な声は、男のもの。
「おまっ、何云って…って、あっ！　おい、こらッ？　まっ…!!」
　何でそんな気になったのか解らない。たぶん初めから死ぬ気なんかなかった。もちろん今も。
　けれどキララは、しわくちゃになった男のシャツから手を離し、屋上のコンクリートを蹴っていた。
「オ〜マイガァァ〜！」
　男の意味不明の叫び声が背後に響く。

　飛んだ瞬間。一切の音が消える。
　キララは無音の世界で、自分が生きている街を、国を、星を想った。
　キララが知っているのは、広げた両手に納まってしまうくらいの世界だけれど。
　どんなに汚染されても、キララはこの星が好きだ。この世界が好きだ。
　何度、傷ついても傷つけても、向き合いたい人が、この世界にはいる。
　大それたことじゃないけど、やりたいことがある。伝えたいことがある。
　まだ、死にたくない。
　次の瞬間、大きな風がキララを支えるように沸き上がって…
　キララは風を抱きしめた。