「やはりお前の壺酒は旨いな」
　ミルク色の縁側で、月ならぬ蒼き地球を愛でながら三日月の盃を傾ける。月天王は上機嫌だった。
　月天王の趣向に合わせて、星をはらんだ漆黒の着物を身に付けた鯨が壺酒を運んでくると、先ほどとはうって変わって座ぶとんは勧めるわ団子は勧めるわ、全く調子良いことこの上ない。しかし、こうして並んで地球を見上げていると、鯨も目の回る程忙しかった毎日を少しの間忘れることができた。
「…美しいな」
　月天王の呟きに。
「美しいですね…」
　鯨も頷く。
　穏やかで、静かな時間。
　どれくらいそうしていたのだろう。鯨はふと気づいて辺りを見回した。
「月王様…、鹿嚇しの音が聞こえませんが…？」
　月天王は盃を傾けながら、
「お前がいるのに余計な音はいらんだろう」
　事も無げに答える。
「え？　わたし唄ってました？」
　自覚がなかったのかと月天王は呆れたように鯨を見た。
「酒を取りに行く時からずっと唄っていたぞ」
　これは不覚。浮かれていることを知られてしまった。
「…月王様と呑めることは、わたしも、楽しみにしておりましたので…」
「わかっている。コラ、唄をやめるな、酒の味が落ちる」
「…はい」
　もとより鯨は月天王に唄うことが至上の喜びなのだ。唄うことに否やはない。しかし、今回はやられっぱなしのような気がして、鯨は気持ちを引き締めた。
　鯨が意識して唄い始めると、心地よい波動に共鳴して月天王の身体が月光色に輝き出す。淡い光は月天王の身体を離れ、螢のようにふわふわと漂い出した。
　地球が蒼いオーロラのカーテンを天空に下ろし、月光の螢が舞い踊る。
　このお球見が終われば、またいつもの仕事に戻るのだ。浮ついていては、月天王の遣いは務まらない。けれど…
　どうか…もう少しだけ、このまま……
　鯨は祈るような気持ちで、その幻想的な光景にしばし見入った。



　次の新月。
　カコォーン……
　心無しか乾いた音が、月面に響いている。
「夜空のクジラ、見ろ、地球があんなに美しいぞっ」
　指差して云う月天王に
「そうですね」
　鯨の答えはそっけない。
「団子はどうだ？」
「結構です」
「…。の、喉が乾いたなーっ」
　わざとらしいセリフにも、
「お茶があるでしょう」
と、にべもない。
「もう入ってないぞ」
　月天王が空の湯飲みを差し出すと、鯨は無言で横にあった盆に手を伸ばした。
　カチャ　ざっ！　じょぼじょぼ…　ちょーっ　ちゃっ！
　流れるような一動作で、急須に茶葉を入れ、電気ポットのお湯を注いで、湯飲みにお茶を絞り出す。
「どうぞ」
　カコー…ン……
　湯気の立ち上る半月の湯飲みを前に、月天王は大袈裟なため息をついた。
「まだ怒っているのか？」
「怒る？　呆れているだけです。学習能力のない神さまなんて、シャレにもなりません」
「あれで全部だとは思わなかったのだ…。お前止めなかったではないか。もっと他にあるのだろう？　隠し貯蔵酒とか裏酒とか…」
「ありまっせん！」
「く〜じ〜ら〜ぁ〜…」
　しくしくしくしく…
　性懲りもなくありったけの酒を飲み干してしまった月天王は、また一年の禁酒生活を宣告されたのだが…。
　実は、ジタジタと駄々をこねる月天王をまた見たいと思った鯨が画策したことを、本人は知る由もなかった…。

　月天王。どこまでも墓穴を掘る愛すべき神…

おしまい