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新月 蒼き光の下で…
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| 大気の極めて希薄な月面では、人の耳に音の振動は伝わらない。凍り付いた、もしくは灼熱の大地に直接耳を当てれば、天体の鼓動を聴くことはできるかもしれないが、それを試す酔狂者も今のところいない。 そんな月面世界に、静かに響く音があった。 カコォー…ン…… 心地よい余韻。そしてまた訪れる沈黙。 …カコォー…ォン…… 平らかな水面に落とされた雫が起こす波紋のように、その音は繰り返し月面を滑ってゆく。 ミルクを流して固めたような乳白色の宮殿の露台で、月天王は一人天空を眺めていた。四隅に絹の房が付いた薄いクッションを床に敷き、その上で長い足を胡座に組んでいる。白銀の長い髪は細い紙の紐で一つに結わえられ、身に付けているのは月光の光沢を放つ絹の着物だ。 …カコォー…ン…… 再び寄せる音の波が真珠の肌を撫でてゆくのを、月天王は楽しんでいた。 「月王様…。こんなところにいらっしゃったのですか」 黒衣の鯨が、ため息まじりの声をかけるまでは。 「何用だ。不粋な」 月天王は眉をひそめて、横に置いてあった湯飲みを口に運んだ。半月に似たカーヴを描く美しいフォルムの白磁の器を、薄い唇に押し当てる。 「……、月王様が『ちょっとお茶してくる』と云われて部屋を出たきりなかなかお戻りにならないから、探していたんです。ここで何を？」 「見ての通り『お茶している』。何か文句あるか？」 月天王はご機嫌斜めのようだ。鯨は周囲の状況を見やり、ゆっくりと床に膝をついた。見慣れぬ形の露台に指先を滑らせて、小さなため息を付く。 天界では神さまたちの気紛れで、季節や時代に関わりなく様々な風物が何の脈絡もなく流行ったり廃れたりする。堅物の鯨はそのウェイヴに乗ることはなかったけれど、月天王が現在「日本風」にハマっているらしいことは知っていた。この状況は「お月見」に似ている。 「これは…、縁側ですね。お召し物は絹織りの着流し、敷いているのは…座ぶとん」 カコォーン…… 「…そしてあれは鹿嚇し。もしかして、ススキやお団子も用意されているのですか？ お茶が目的とは思えませんが…」 月天王は答えない。 「そう云えば今日は新月。あぁ…確かに、地球を眺めるには良い日です」 天空を仰ぎ、そこに浮かぶ蒼い星に目を細めた鯨だったが、 「ダメだ。私は一人でお球見するんだ。お前なんか混ぜてやらん」 つーんとそっぽを向く月天王に、つい苦笑がもれてしまう。 「お茶で、おたまみ…ですか…。まだ怒っていらっしゃるのですね？」 つーん。 鯨には月天王の意図が分かってしまった。いや恐らくは、わざと分かるように振る舞っているのだろう。だが、鯨だってそう簡単に折れてやる気はないのだった。 「でも、あれは月王様がいけないのですよ。あれほど全部呑んではいけませんと申し上げたのに、今年の分まで呑んでしまわれたのだから」 つーんつーん！ 「そんなにそっぽ向いてると、一周してしまいますよ」 鯨のたしなめるような声に、いきなりくるりと振り向いた月天王は、 「私は一年禁酒したぞ！もう呑んだっていいではないか！」 とだけ云い放って、また背を向けてしまう。 まずい……。 「ですから……、もうしばらくご辛抱をと…。あと、数カ月もすれば美味しく呑めるようになりますから…」 まずい…。まだ、折れてやるには早すぎる。もうちょっと、踏み止まるべきだ。せめて、もう来年の分まで呑んだりしないと約束を取り付けるまでは…。分かってはいるのだが…。 「この私がっ！お前の云うことをきいて一年もっ！禁酒したのだぞ！待てん。もぉう待てんっ！待てーんッ！」 両のこぶしを振り上げた月天王が、そのまま大の字になってミルク色の縁側に寝転がり、あろうことか子供のようにジタジタ手足を打鳴らすに至って、とうとう鯨は頭を垂れた。 カコー…ン…… 「…し、仕方ありません…。まだ、少々味は浅いかと思いますが…、お持ちしましょう…。くれぐれも、全部呑んでしまわないで下さいね」 それだけ云うとそそくさと立ち上がって、宮殿の奥へ消えてしまう。 残された月天王は、横目で鯨を見送るとむっくり起き上がり、 「フフン…。最近あやつはこの手に弱いな」 いそいそと三方に団子を積み上げ始めたのだった。 一方、鯨は。足早に秘蔵の壺酒の貯蔵庫へ入ると、崩れるようにその場にへたり込んで、「…かっ…可愛いーッ!! そして面白いぃーっ！」壁一面に並んだ壺をベシベシ叩きながら、しばらく息もつけぬ程笑った。 酒など、その気になればいくらでも手に入れることができるのに、月天王は鯨の言い付けを守った上で、ああしてゴネてみせたのだ。 天界では誰もが、悠久の時の中で終わりのない仕事をしている。殊に生きた人間の負の感情を喰らう鯨の仕事は、見かけ程楽ではなかった。ともすれば、業務的なだけのやりとりに終止しそうなその永遠の日常の中で、彼らはそれでもかけがえのない一瞬一瞬をこうして記憶に刻んでいる。 笑い疲れて大きく息を吐いた鯨は、コツンと素焼きの酒壺に額を当てて呟く。 「わたしは、まだ大丈夫です。月王様…」 まだ、笑うことができる…。鯨の口元には穏やかな微笑みが浮かんでいた。 鯨の唄声で醸造される壺酒は、その微笑みでさらに味わいを深くするだろう。 |