「花火の夜」-その3

　夜空を背景に聳え立つその姿は、まるで要塞か巨人ロボットのようだ。
「お、大きいね…。ここに住んでるんだ」
　この町にはまだ少ない高層マンションの前で、いづみは思わず立ち止まった。
　お家の方にきちんとご挨拶するのよ、というママの声が蘇って緊張する。
「別にこれ全部が俺ん家ってわけじゃないよ」
　若山くんは笑って云った。
「中古の賃貸マンションだからそんなに綺麗でもないしね。それより急ごう」
　予定より随分遅くなった、と急かすようにいづみの腕を引っぱってエントランスのドアを押し開ける。
　エレベーターに乗り、若山くんの家の玄関までの数分間。いづみの頭の中は、挨拶の言葉がぐるぐると回っていた。
「ただいま〜」
　若山くんがドアをくぐり、いづみがあとに続く。
「こっこんばん…」
「遅い！」
　鋭い声がして、
　べしッ！　と何かが若山くんの顔に当たった。
「っ?!」
「ってーな！　いきなり何すんだ、よっ」
　若山くんは顔に張り付いたミトン型の鍋つかみを引き剥がすと、反射的に投げ返した。
　ぶん！　と飛んでいく鍋つかみをひょいとかわして、
「今何時だと思ってる。小学生の分際で、夜遊びした上にこの僕を待たせるなんで百年早いよ」
　声の主は、凛々しいエプロン姿にお玉を持って、二人を出迎えた。
「げっ兄ちゃん…。まさか、兄ちゃんだけか?!　母さんは…？」
「急な取材が入ったとかですっ飛んで行ったサ。夕食の準備もせずにね！」
　いつものことだけど！といかにも不機嫌な兄の様子に、若山くんは、がくっと力なく肩を落とし、
「遅くなって…ゴメンなさい」
　意外にもあっさりと折れる。
「でも、花火見に行くって云ったじゃん。それに、友達連れて来てるんだから、あんま失礼な出迎えしないでよ。もう…」
　ため息まじりにそう云って靴を脱ぎ、いづみにも上がるように促した。
　いきなりの鍋つかみ攻撃にも驚いたが、いづみがびっくりして声も出なかったのは、若山くんのお兄さんだというその人が、あまりに綺麗だったからだ。
　細身の顔にすっきり添うようにカットされた髪が、形の良い眉の上で緩く流れて、切れ長の目を引き立たせている。鼻も唇も形が良く「絵に描いたような」という表現がぴったりだ。
　促されて、不躾に顔を見つめていたことに気付き、慌てて頭を下げた。
「こっ今晩は！　初めまして。林いづみです。夜遅くにお邪魔します。あのっ、ぼくが歩くの遅いから、こんなに遅くなっちゃって、すみませんでした」
　深く下げた頭のすぐ近くでくすくすと笑う声がして、いづみはそうっと顔を上げる。
「いらっしゃい。大地の友達だっていうから、どんな子かと思ってたけど。結構可愛いねぇ」
　さっきまで怒っていたとは思えない穏やかな笑顔がすぐ近くにあって、思わず身体を引いてしまった。
「びっくりさせて悪かったね。さ、上がって。お腹空いてるだろ？」
　今日はカレーだよ、と云いながらキッチンへ戻ってゆく。若山くんとはあまり似ていない端正で知的な顔だちだけれど、笑った時の柔らかい雰囲気は同じだ。
　男でも、綺麗な人っているんだなぁ…。
　そんな感想を抱きながら、いづみはきちんと靴を揃えて上がった。
　既に若山くんは食卓でスプーンを握っている。相変わらず素早い。が。
　スパーン！　と小気味良い音がして。
「手を洗って来い！」
　綺麗なお兄さんは、手が早いらしい。若山くんがこの兄を苦手に思っているらしい訳も、漠然とだが理解できる気がした。
　一人っ子のいづみの目に、この兄弟の関係は新鮮に映る。羨ましいような、そうでもないような…。
　
「お代り！」
　学校の給食でもそうだが、若山くんは食べるのが早い。その上大食。身体は決して大きい方ではないのに、小食のいづみの倍は軽く食べてしまう。栄養の殆どが成長にではなく、活動のエネルギーとして消費されているのだろう。
「…甘えるな」
　兄が発した氷の一言に、若山くんは渋々立ち上がりキッチンへ入っていった。
「いづみくん、カレー大丈夫？　辛くない？」
　打って変わってにっこり笑顔で聞かれても、それはそれでコワイ。
「は、はい！　大丈夫です。美味しいです」
　泪目で答えるいづみの前に若山くんが戻って来た。手には自分のカレー皿と、何故か1リットルの牛乳パックが。と、
「嘘つけ」
　云うが早いか、どぽっ！　それをいづみの皿に流し込む。
「！」
「大地！」
　驚く二人をしり目に、本人はいたって冷静だ。
「お前、辛いのも熱いのもダメだろ」
「…そうなの？」
　いづみは俯いて、小さく頷いた。
「…はい。ごめんなさい」
「謝らなくていいんだよ」
「まぁとにかく、食ってみろよ。兄ちゃんカレーの旨さは牛乳で更にパワーアップされてるはずだぜ」
　云われて、牛乳で冷めたカレーを口に運ぶ。
「…！　美味しい…」
　若山くんはニヤリ、と不敵に笑った。
「お前、乱暴なことを」
「でも、ホントに美味しいです。おに、お兄さん、のカレー」
　しどろもどろのいづみに、
「…、ありがとう。要っていうんだ、僕」
　若山くんの兄、若山要は優しく笑いかけた。
「え〜と、か、かなめ…さん」
　ちょっと照れたように名前を呼ぶいづみに、若山くんが突っ込む。
「んじゃ、俺のことも大地って呼べよ！　この家じゃ、皆若山なんだから！」
　何だか話しの焦点がズレてきている気もするが、
「だ、大地…くん」
　いづみがそう呼ぶと、若山くん、いや、大地が本当に嬉しそうに笑ったので、細かいことはどうでも良くなってしまった。
「よしっ！　御褒美にこれやろう。カレーときたらコレ！　この福神漬けがメチャ旨いんだ」
「あ、ありがと…大地くん」
「あっコラ！　それは入れ過ぎだろ！」
「いいじゃん、また買ってくれば！　ケチッ！」
「…今失敬なこと云ったのはこの口か？　僕は塩分と糖分の取り過ぎを云ってるんだ」
「うひ〜」
「か、要さん！　こぼれてる！」
　福神漬けを巡って熾烈な攻防を繰り広げる兄弟を見ながら、いづみは何故だかほこほこと幸せな気分になっていた。

「いづみ、風呂入ろーぜ。…何やってんだ？」
　リビングのテーブルで何やら書き物をしているいづみの手元を、大地が覗き込む。
「絵日記だよ。今日の花火の事とか、忘れないうちに書いとこうと思って」
「へぇ〜。そんなモンまで持って来てたのか」
「へぇって…、これ宿題だよ。若…じゃなかった、大地くんも書いてるんじゃないの？」
「そんなの、後でてきとーに書いちゃえばいーじゃん。めんどくせー」
「だって、後からじゃ天気も分からないよ」
「……、ふっ。いづみ、俺たち友達だよなっ」
「………大地くん」
　大地が白地図以外にも狙っているモノがあると気付いたいづみは、流石にちょっと呆れてため息をついた。
「二人とも、もう遅いんだから早く風呂に入って。中で遊ぶんじゃないよ」
　キッチンで洗い物をしている要が声をかける。
「は、は〜い！」
　いづみは書きかけの絵日記を置いて、大地の後に続いた。

　　八月○日
　　今日は町の花火大会でした。
　　何年も行ったことがなかったけど、大地くんが誘ってくれたので行きました。
　　こんなに近くで花火を見たのは生まれて初めてで、
　　ぼくも大地くんもびっくりしました。
　　とても楽しかったので、大地くんとまた…

　今年のいづみの日記は、大地の名前でいっぱいになるだろう。そんな予感がした。

「花火の夜」終わり

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