スカイスクレーパー
-空をひっかくもの-

 それはまるで星をまとう『山』だ。
 史上初の一千m級巨大建築物。複数のビルが複雑に繋がった二百を超える階層に、十万の人と都市機能の全てを内包する。近代建築の粋を集めて造られた新世紀のバベルの塔とも云えるこの建物は、その頂きに幾つもの尖塔を掲げたデザインと、外壁の大半を強化硝子で覆った造りが独特で、通称「硝子の巨人」と呼ばれていた。

 『深夜二時。巨人のてっぺんへ来られたし』
 そんなメモを手にした黒い影が、屋上へと続く長い階段を昇ってゆく。
 静かな階段室に響く、荒い息づかいと足音。初めは快調なリズムを刻んでいたその音が、十階分を昇ったあたりから急激に乱れた。
「ったく、何が、悲しゅうて、真夜中に、こんなっ…!運動を…っ!」
 黒づくめの男はその怪しい成りとは裏腹に、打たれ弱そうな愚痴を吐く。十五階分を昇ったところで、膝が震えてきたようだ。
「はぁ、今、何階だ…?」
 ふと目を上げると、一枚の張り紙が目に入った。
『あと五階。ガンバレ!』
 見覚えのあるヘタクソな文字。
「あッ! やられた! エレベーターの『メンテナンス中』もこいつの仕業か! ンのヤロ〜!」
 怒りに任せて、ラストスパートをかける。しかし、それもすぐに力尽き…。
 男がへろへろになって最上階の踊り場に倒れ込むと、
「は〜い、リッちゃんお疲れ〜!」
 深夜に不似合いな明るい声が迎えてくれた。
「タイムは六分かぁ。四十前のオヤジとしては、まぁまぁ標準かな。よく頑張りました」
「こ…のっ! エン…、おま…何…!」
 息があがって文句も云えない。それも計算の上か?
 小学生の頃の『ちゃん』付け愛称で呼ばれた黒づくめの男、リツロウは、大きく息をつくと諦めたように苦笑して床に足を伸ばした。
「はぁ、ったく。オヤジ云うな。俺はまだ三十代だっての。お前だって同い歳のくせに。大体、それが人をこんな時間にこんな場所へ呼びつけておいて云う台詞か」
 リツロウも大概若作りな方だが、エンにいたってはここ十年ほとんど変わらない。人を和ませる優し気な風貌と柔らかな物腰、食えない性格も昔のままだ。
「実は、次のオリンピックに階段駆け上り競争が」
「んぁ?! …それで? 俺、金メダル取れそう?」
「ムリ。一分間に最低十階くらいは昇れないと」
「…四十前のオヤジに無茶云うなよ」
 軽口の応酬は、会わずにいた数年のブランクを感じさせない。二人はにやりと視線を交わした。
「冗談はさておき」
 エンは、芝居がかった仕草で背後に手を伸ばし、
「一汗かいた後が、特に爽快だって評判なんだよね」
 そう云って扉を開ける。
 ビョォォ…
 強い風が吹き込んで、リツロウは一瞬目を瞑った。
 エンに促されて、ゆっくり目を開くと。
 風の向こうに広がっていたのは…。

 果てのない『夜空』。

 天鵞絨(ビロオド)の闇の中、天にも地にも全方向に光の粒が瞬いて、その境目すら分からない。
 細い三日月が、遠慮がちに天を主張するだけ。
 地上一千m、周囲三百六十度を見渡す展望露台(テラス)からの眺めは、爽快を通り越して、背筋がゾクゾクするほどの畏れを抱かせた。
 吸い込まれる…!
 狭い閉鎖空間から急に外へ放り出されて、リツロウは目も口も心も、閉じることができなくなる。
 余りにも雄大な世界を前に、押し込めていた苦しい想いが心の奥から溢れ出して…。

『どうして追加公演を断るんだ』
『世界ツアーは成功したんだからもういいでしょう』
『更なるビッグ・ビジネスのチャンスじゃないか』
『俺はこの映画音楽のオファーを受けたいんです』
『へんぴな島国の無名監督の三流映画だぞ? 話しにならん。それを受けると云うなら、契約は解除だ。君の歌手生命も終わりだな』


 しがらみや権力にのまれ、色々諦めた、妥協もした…。
 焦りや怒り、いら立ちを押さえ込んでここまで来た。
 でも、それは本当に自分が望む道なのか?

 リツロウは想いの全てを手放して、星の海に、風の波に身を委ねた。
 もうカラッポだ。何もない。そう思われた心の片隅に、かすかに光を放つ綺羅星は『唄』の欠片。
 気がつくと口から、声が滑り出していた。

キミは見上げていたね 見えない星空を
風吹くビルの影 夜更けの街…


 数世代前の歌姫が作った、今はもう忘れられた唄だ。
 静かで美しい旋律に、切ない歌詞が刻まれている。

哀しみが攻めてくるよ もっと大きくならなければ…
哀しみが攻めてくるよ… 哀しみが…

 …唄が、溢れて止まらない。
 過去の旋律はリツロウの中で新たな旋律を生み、母音のみで紡がれるヴォカリーズとなった唄声は、人と星が輝く無限の夜空へ解き放たれていった。
 どれくらいの時が経っただろう。何曲唄ったかも分からなくなるほど、夢中で唄い続けて…。
 長く伸びやかなリツロウの声が、深い余韻を残して闇に解け…、消えた。
 一瞬の静寂の後、
 ざわ…と、さざめきが起こる。
 同時に、ポツ、ポツ…とランプの明かりがあちこちに灯り始めた。
「な…に?」
 さざめきが大きなうねりとなって辺りを包む頃、ようやくリツロウはそれが拍手である事に気付くのだった。
 戸惑う背中に、
「驚いた?」
 笑いを含んだエンの声。
「エン! おまっ、一体何企んだ?」
「いやだなぁ。発起人は僕じゃないよ。ホラ…」
 十数m離れた少し低い位置にある露台を指差すと、そこに立つ初老の男性がワイン片手に手を振り返した。
「あっ! か、監督ぅ?!」
「露台全部をキープするのに手間取って、こんな時間になっちゃったけど、ここへ来ればリッちゃんは絶対唄うからって、彼が皆に声をかけたんだよ」
 その言葉を信じて、これだけの人がこんな時間こんな場所に集ったのだから、『へんぴな島国の無名監督』の力だって馬鹿に出来ない。
「え、じゃぁ、あの人たちは…」
「スポンサー候補、ってとこかなぁ」
 捨てる神あれば拾う神あり。そんな諺が頭を過る。
 ハメられたのだから怒るべきなのかもしれない。よくこんなことを、と呆れる気持ちもある。でもそれより何より、彼らの懐の深さと暖かさが、たまらなく胸に沁みた。
「リッちゃん、…お帰り。やっと帰って来たね」
 本当の居場所に。
 エンの姿が、不覚にも滲んでしまう。
「…ただいま。エン、俺、お…、う…っぶし!」
 いい場面でくしゃみが出てしまう辺り、どこまでも三枚目なリツロウだった。
 エンは、あははと声を上げて笑い、ポケットティッシュを差し出す。リツロウはもう泣き笑いだ。
「また、原点に帰って来たってことか…」
 もう一度、いや、何度だってやり直せばいい。
「リッちゃんは昔から高い所で唄うのが好きだもんね」
 イヤ、それは違うって…。まぁ、敢えて反論はしないけども。
「僕も聴いてて気持ち良かった」
 エンの笑顔に、
「んじゃ、もう一曲いっとくか」
 リツロウは再び夜空を仰いだ。
 天鵞絨の夜空に聳え立つ『硝子の巨人』。その頂上から響く朗々たる唄声は、まるで巨人が唄っているかのようで、聴く者の心を優しく揺さぶった。

 この後リツロウが関わった映画は、テーマ曲と共に永く人々に愛され、記憶に残る名作となる。


おわり
※スカイスクレーパー(Skyscraper)=超高層の意

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