地球が爆発したら、一番遠くまで飛んで行こうね。

薄汚れた壁に、幼い文字で記された落書き。
列車が通るたび轟音で満たされる薄暗い高架下で、おそらくは終末思想にさえロマンを感じてしまうような若い恋人達が、永遠の愛の証として描いたのだろう。
地球と思しき歪んだ丸から、二体のわら人形が手を繋いで飛び出したような乱暴なイラストからも、彼らがその場のノリと勢いでそれを描いたことが伺われる。
明日になれば、一緒に飛んで行きたい相手は替わっているかもしれない。
それなのにその刹那的な行動の奥底に、純粋な想いがあるような気がしてならなかった。だから、何年も前に見たその落書きを、いつまでも忘れられずにいるのだろう。

 世界の終わりに、自分は誰を想うのかと…

「Final Count Down」


「あと1分ですっ!」
 悲鳴に近い声が耳に飛び込んで来て、良平は我に返った。
「…58、57、56…っ」
 四方を計器類で埋め尽くされた、狭く暗い部屋の中。
「わかってる! 少し黙っててくれ」
 くぐもった轟音が床を絶えず振動させ、半泣きの声でカウントダウンなどしてくれなくても、限界が近いことを知らせている。良平の制止で、モニターの中のオペレーターは悲愴な顔のまま秒読みを止めた。
 慣れない回路の切断に集中したかったので、うっとうしい顔を映す画面も消してしまいたかったが、この暗い場所では貴重な光源でもあるモニターを切るわけにはいかない。良平は手にしたペンライトを口にくわえ、手元を照らしながら床のパネルを外し、複雑に入り組んだ回路を探った。
「あった…」
 三色の細いケーブルと二つのボタンがついた四角い箱。液晶の小窓にはデジタルの赤い数字が点滅して、爆破までの時間を刻んでいる。それは地球の殻を破壊するという最終兵器の起爆装置だった。いかにも最終兵器ですといわんばかりに、髑髏のマークが入っている。
「ふざけやがって」
 地球の命運がかかっているのだ。焦ってはいけない。耳もとで早鐘を打つ心臓を何とか落ち着かせ、良平は顔を上げずに云った。
「起爆装置を発見した。指示書を読んでくれ」
 オペレーターは弾かれたように手元の紙片を取り出し、震える声で読み上げた。
「まず、ケーブルを正しい順番で切断し時限装置を停止させること。なお、正しい順番は不明。ヒ、ヒントはチューリップ…」
「おいおい…、ヒントって何だよ? 分かるように云えよっ!」
 良平の要求に、オペレーターは首を横に振るだけで答えられない。
 と、オペレーターに代わって、突然大勢の声が聞こえてくる。
「良平兄ちゃん、がんばって!」
「世界を救えるのは君しかいない!」
「やるんだ、良平!」
「あなたならできるわ! 私達を助けて!」
 まるでTVのヒーロー扱いだ。ヒーローならこんな窮地も鋭い閃きで乗り越えられるはず。
 チューリップ、チューリップチューリップ…
「チューリップと云えば〜っ!」
 ♪赤・白・黄色ーッ?! (ソミレドレミド♪) …マジ?
「えぇい、ままよ!」 
 緊張で震える手に、携帯用裁縫道具セットの小さな糸切鋏を持って、良平はケーブルを切断し始めた。
 赤。パチン
 白、黄色。パチンパチン…
 デジタルの数字が、止まった…。
「やっ…た!」
 ところが。
「時限装置停止後10秒以内に起爆停止ボタンを押さないと、じ、自動的に起爆…しますっ!」
「なにぃ〜?! それを先に云え〜っ!」
 赤い数字は10秒からカウントを再開した。
「おいおいおいおい〜っ! さっきより時間ねぇじゃんかよっ!! どれだよ、その起爆停止ボタンって!」
「二つのボタンのどちらがそうかは不明。なお、起爆ボタンを押せば即起爆。こ…幸運を祈る…」
「ふざけんなぁぁ〜!」
 二つに一つ。時間はもうほとんどない。
 気持ちの悪い汗がどっと出てくるが、そんなことにかまってはいられなかった。震える指が並んだボタンの間を行き来する。迷う時間すら、残されていないのに。
 どくん…、どくん、どくん…
 自分の心臓の音しか聞こえない。
 大丈夫だ…。大丈夫…、こんなことで地球が終わっちまう筈がない。TVのヒーローなら、こんな時、絶対間違わないって相場は決まってる。3、2、1でストップだ。
 どくん…、どくん、どくん…
 良平は世界を救うヒーローとして、ボタンを、
「3…2…、っ!」
 押した。
  カッ!
 瞬間。世界はホワイトアウトする。
「げっ?!」
 僅かな浮遊感ののち、良平は宇宙に放り出された。暗黒の宇宙に浮かぶ宝石とうたわれた地球が、ひどくゆっくりと砕けていく。
「俺、失敗した…?」
 自分が死ぬという事実より、何十億という人たちの未来を奪ってしまったことに愕然とする。
  ごめん…。俺ってやっぱ、ダメな奴なんだよ…。
 薄れゆく意識の中で、良平はただ、謝り続けた。父に母に、兄弟に、友人や好きだった沢山の人たちに。顔も知らない世界中の人々に。
  ごめんな…、ヒーローじゃなくて。
 最後の最後に浮かんだ人の笑顔は、良平を責めてはいなかったけれど。
 もう彼らが笑うことはないのだと思うと、悲しくてやりきれなかった。
  皆…ホント…、ごめん。


「えらい器用な格好で爆睡してんなぁ」
 ポコンと額をはたかれて良平が目を覚ましたのは、清々しい朝の公園のベンチの上だった。
「は…、んが?」
 眼鏡がずれてぼやけた視界を、見慣れた顔が覗き込んでいる。
「あ、天使…。っと、おわっ?!」
 ドテッ
 何も考えずに起き上がろうとした為、良平は寝ていたベンチから転げ落ちてしまった。どうやら、手足や頭がベンチからはみ出すような寝方をしていたらしい。
「って〜…」
 眼鏡は掛け直したものの、すぐには起き上がれない様子の良平に、
「何で朝っぱらからこんなトコで寝てんのん?」
 呆れながら天使の手が差し伸べられた。
 ただしこの「天使」、エンジェル・リングや純白の翼はついてない。
 いつも笑っているように見える細い目と、あまり手入れをしているとは思えないふわふわ猫毛(ボサボサ頭とも云う)、その上、
「下戸のくせに宿酔いか? あほやな〜。このご時世に間抜け面して寝こけとったら、ケツの毛ぇまでむしられんで」
 可愛い顔して乱暴な関西弁を話す(そしておしゃべり)。天真爛漫で憎めないところはあるが、世間で云う「天使」像とはかけ離れている。名前はちゃんと本名なのだけれど、名付け親の願い通りには、なかなか育たないものらしい。
 もっとも、名前負けなら良平も人の事をとやかく云えないだろう。中学から代わり映えしない髪型(色は勿論、黒)に近眼眼鏡、十人並みの容貌と中肉中背の体格、性格的にも能力的にも突出した所のない、ごくごく一般的な人間だと自分では思っているのに、何故だかちょっとしたトラブルにすぐ巻き込まれてしまうのだ。それも大抵は一方的に被害を被る側。「平らかで良い」人生なんて一生歩けそうもなかった。
 トラブル自体は些細なことが多いので、生命の危機にさらされた事はないが、打ち身・擦り傷はしょっちゅうだし、25になった今でも定職にありつけず長く付き合えた彼女もいない。
「酔ってなんかないさ。夕べちょっと色々あって、寝てないんだ…」
 ベンチに座り直してため息を付く良平に、そこそこ友人付き合いの長い天使は、またかと肩を竦めて見せた。
「バイトは?」
「…今週は遅番」
 服についた土を払っていると、目の前にポケット・ティッシュが差し出される。
「コキタナイ服はしゃーないけど、顔は拭いとき。ヨダレ垂れてんで」
 良平は慌てて口元を押さえ、もごもご礼を云ってそれを受け取った。
「…どっか具合悪いんか?」
 僅かに眉をひそめ、覗き込んでくる仕種から心配してくれているのがわかって、良平は笑って首を振った。
「いや、夢見が悪かっただけ…。心配ない」
 夢…。そう…だよな…。俺があんなコトする羽目になるなんて、夢に決まってる…。シチュエーションだって、メチャクチャだったし。その割にボタンを押した感覚だけは妙にリアルだったけど…。
 夢で良かったと心底ホッとして、まだ震えの残る指先をぎゅっと握り込んだ。
「変な格好で寝たりするから泣くほど恐い夢なんか見るんやで」
 持っていた紙袋を探りながら、隣に腰を下ろした天使の言葉に、
「えっ?! 俺、泣いてた?」
 良平は赤面してあたふたと頬を擦った。
「ふん。コレ食う? 朝ごパン」
 唐突に天使が取り出したのは、芳ばしい香り漂う胡桃パン。
 返事も聞かず、半分にちぎって寄越す。自分の分はすでに口の中だ。
 朝食を取るような気分ではなかったのだけれど、胡桃があちこちから顔を覗かせている素朴なパンからは、穏やかに食欲を刺激する芳香が漂っていて、良平は誘われるようにそれを受け取っていた。
 一口齧る。しっかりしたパンの弾力と、胡桃のコリリとした食感、そして芳ばしい香りが口の中に広がった。噛み締める程に甘味が増すような気がする。
「…うまい」
「やろ〜? そこのカフェで朝一番に出る焼き立てやで。もいっこ食う?」
 あっという間に半分を平らげてしまった良平に、あそこの看板娘にこのパンのレシピを教えたのは自分なのだと、天使は嬉しそうに話した。
「何かさ…」
「へ?」
 ため息混じりの良平の声に、天使はおしゃべりを中断する。
「俺って、どんなに落ち込んでても、腹は減るし、旨いモンは旨いって感じるんだよな…」
 食べかけの胡桃パンに視線を落して、良平は苦笑した。
「何や何や〜? えらい気弱な発言やなぁ。またフラレたんか?」
「またって云うな、またって。この間からそんなに経ってないだろ。今回は、そういうのとは違うんだ」
 良平はさっきの悪夢の原因と思われる夕べの出来事を言葉少なに語り始める。
 夢などではなく、全く突然に命が消える瞬間に立ち会ってしまったことを。
 まさか自分が、誰かの臨終に立ち会うことになるなんて、それまで考えたこともなかったけれど…。
 仕事帰りの電車の中、たまたま偶然隣に座った老人が、心臓の発作で倒れてしまったのだ。
 無意識なのか誰かと間違えたのか、良平の手を掴んで離さないので、救急車に同乗することになり…。その後の事は、混乱していたせいもあってよく憶えていない。
 見ず知らずの、言葉さえ交わすことはなかった老人。憶えているのは、こざっぱりした身なりにしっかりした足取り。腰を下ろす時、席をつめた良平に優しい笑顔で会釈してくれたこと。そして、深い皺が刻まれた手の温もり。それが失われてゆくのを、為すすべもなく見つめる自分。
 たまたま隣り合わせただけの、しかも医療の知識などない良平に何が出来た筈もない。実際、誰も彼を責めたりはしなかった。けれど、無力な自分を感じずにいられない。
 突然訪れた命の終焉は、本人にとっても家族にとっても、そして良平にとっても晴天の霹靂と云えた。
 明け方、ようやくアパートへ帰り着いても、ひとりきりの部屋にどうしても入る気になれなくて、良平は公園に足を向けたのだ。
 命は儚い。それに対して自分は、今まで何をして来ただろう?これから何ができると云うのだろう?
 無力な自分は夢の中でさえ、何一つ救うことが出来なかったのに…。
「子供の頃は単純に、超能力や強運で世界を守るスーパーヒーローに憧れてたけど、実際問題、俺ってそんな器じゃないんだよな。人様に手を貸すどころか、自分のことも手に負えてないんだから。泣く程ヤな夢まで見るし。で、自分じゃ結構落ち込んでるつもりだったんだ。けどサ、一眠りしたら、もうコレだもんな」
 良平は自嘲ぎみに、残りのパンを口に放り込んだ。
「それが良平のええトコやんか」
「え?」
「食べ物は生命の糧や。身体だけやない、旨いもんを食べれば心も元気になる。ちゃんと腹が減って、食ったモンを旨いと感じるのは、良平の生命力の表れや。まだまだイケルっちゅうコトやんか。食べ物に限らへんけど、本当はそれを欲してるのに、弱い心に負けて手を伸ばすことができひん人かて大勢おる。失敗しても落ち込んでても、良平は生きる力をなくさへん。それって結構大事なことちゃう?」
「単に食いしん坊だって云われてる気がするのは、気のせいか?」
 気恥ずかしくて茶々を入れる良平に、
「食意地張ってんのは間違いないな。ツキのなさも天下一品やし。良平はスーパーヒーローにはなられへん。そやけど、」
 天使は笑顔でとどめを刺す。
「良平のそーゆーとこ好っきやねんな〜っ」
 トスっとハート適中。良平の負け。
「かなわないなぁ…。俺はお前のそーゆー臆面もないとこが恥ずかしいよ…」
 ストレートな言葉に手で顔を覆う良平の背中を、天使は楽しそうにバンバン叩いた。
「あはは、耳まで赤いで。まだまだやなぁ、良平。さ、ぐずぐず云うてんといっぺん家帰って顔洗いや。仕事サボったら、またクビになんで、また! だいたい、25過ぎた男が泪とヨダレ垂らしてベンチで寝てたなんて、格好悪いやんか」
「泪は垂らさんって。…あぁ、参った。お前これ三月は云うんだろーなぁ」
 大袈裟に嘆きながらも、良平は立ち上がる。
 あほ。半年は使わせてもらうで。と、天使は容赦がない。
 公園の新緑を撫でた風が、頬に気持ち良かった。
「んん〜っ!」
 地面に両足をふんばって、良平は大きく伸びをする。
 本人に自覚はないようだが、良平はしなやかな強さを持っていた。苦しみや悲しみを、忘れるのではなく吸収して己の一部にすることで乗り越え、前に進もうとする力を。
 生命の不条理を目の当りにしても、生きることを諦めない。その姿がどれほど天使を勇気づけているか、まだ彼は知らない。
 自分が、天使に希望を与えてくれる世界にたった一人の人間なのだということを。
「良平がスーパーヒーローなんかになる必要はないんや…」
 そんな重荷を一人で背負うことはないのだから…。
 天使のつぶやきは、良平の耳に届く前に風がさらって行った。
 スーパーヒーローが万人を救うなんてのは夢物語りだ。けれど、身近な人にほんの少し勇気や元気を与えることは、誰にでも出来る。有効範囲はそんなに広くなくていい。たった一人にだって構わない。
 誰もが誰かを勇気づけ支えることが出来たなら、救いの環はきっと世界を取り巻くだろう。

 しばらく後、良平のもとに老人の遺族から手紙が届いた。
 病院に到着する前後の記憶が、良平には欠落していたのだけれど、孫の名前を呼び続ける老人の手をずっと握って励ましていた事を、病院関係者から伝え聞いたらしい。短いけれど心のこもったお礼の言葉と供に、老人の顔が穏やかであったことが書き添えられていた。
 良平は老人の為に少しだけ泣いて、そしてまた、いつもの生活に戻ってゆく。食事をし、仕事に行き、時には羽目を外すほど遊んで、大いに笑い、ぐっすり眠る。
 顔を上げ、きちんと前を見て。大地に足をふんばって生きてゆくために。

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