美しくも荒涼とした月の宮殿。
　月天王と鯨は、一仕事終えてのんびりとした時間を過ごしていた。
「…何だか、やるせないなぁ…」
　白い大きなソファーに埋もれるように身体を預けていた月天王が、ポツリとごちる。前にも聞いたことがあるようなセリフだ。
「如何なされました、月王様？」
　少し離れたところで、壺の整理をしていた鯨が振り返る。
「…いや…色々と、な」
　曖昧に応えて、月天王はため息をついた。
　日々、人々の乱す霊気を鎮めるために力を尽くす月天王が、一向に減らない悲しい念に心を痛めているだろうことは容易に想像がつく。鯨は敢えて深く追求せず、視線を壺へと戻して作業を続けた。
　黙々と働くその背中へ、
「知っているか？」
　不意に月天王が声をかける。
「ブランカがケーキ屋を始めたらしいぞ」
　会話の流れが微妙に不自然だ。こんな物云いをする時の月天王は、大抵何か面倒なことを画策している。
「噂は存じておりますが…、それが何か？」
　鯨は手を止め、用心深く問い返した。
「…別に」
　月天王は再び曖昧な返事をして、
「はぁぁ…。やるせない…」
　さっきより大きなため息をついてみせた。
「つかの間でいい、幻でいい…。私も、甘い夢をみたいものだ…」
「！！」
　何を云い出すかと思えば！
　大方、日輪王に器用な部下の自慢でもされたのだろう。鯨にも極上の酒を醸造するという特技があるが、数で優るブランカの多様な芸(？)には適わない。
「わ、わたしに菓子など作れませんよっ」
　鯨ですからっ！
　意味不明の云い訳をして後ずさる鯨に、チラリと視線をくれて、
「分っているさ…。…はぁぁ…」
　月天王は物憂げに目を閉じたのだった。


「それで、ここへ？」
　明るいオレンジ色のエプロンで手を拭きながら、ブランカが顔を上げた。お揃いのスカーフでまとめたプラチナブロンドの髪がふわりと揺れる。
　視線の先には黒衣黒髪の鯨が立っていた。明るい店内に、黒づくめのその姿はひどく目立つ。
　自分の存在が、この場所で浮いているのは充分承知しているが、だからと云って逃げ出す訳にも行かない。鯨は固い決意で一歩前に踏み出した。
　その手に、漆黒の糸で織り上げられたエプロンを握りしめて。
　よもや自分がエプロンをつけてお菓子を作るなどと、数千年生きてきて想像したこともなかったのだが。
「…わかりました。お教えしましょう」
　鯨の決意を感じ取ったかどうかは分からないが、ブランカはそう云って柔らかく微笑んだ。
「感謝する。手をかけさせてすまない。それから…このことは、月王様には内密に願いたい」
　改まって云う鯨に、
「別に私は云いませんけど…」
　ブランカは少し困った顔をした。
　この雲の国で日輪王に隠し事はできない。日輪王に知れるということは、すなわち天界に知れるという事だ。月天王とて鯨の行動には気付いているだろうし。
　もうバレちゃってるんじゃないでしょうか…。
　しかし、鯨があまりに真剣なので敢えてそれは指摘しないことにする。
「では、早速始めますか。何か作ってみました？」
「…勿論努力はしてみた。だが、何度やっても上手く行かない。だからここへ来たのだ」
「う〜ん、ではどこがいけなかったのか、作りながら考えてみましょう」

　その頃の月の宮殿。
「鯨？　いないのか。……？」
　あまり嗅いだことのない匂いに導かれて月天王が見つけたのは、部屋の片隅に隠すように置いてあった素焼きの壺だった。
　やけにしっかりとフタがしてある。持ち上げるとどっしり重い。これは怪しいと、月天王は躊躇わずフタを開けた。
　壺にはみっちり何かが詰め込まれている。丸い板状のものが、何枚も重なっているようだ。
「……これは、何だろう…？」
　穀類と動物性タンパク質、糖類などで形成されているらしい匂いは、する。しかし摘まみ上げた平べったい代物は、ずっしりと重くぶよんとした弾力があった。とても食べ物には見えない。それはまるで…
「…ゴム？」

　雲の国が、焦げ臭い。
「あぁ！　それは焼き過ぎです！」
「えっ？　あっ！」
「！　ミトンをはめてください〜！」
「ァツ！」
　ドタドタ、ガッシャン、ガラガラ…　コン。
　また一つ、食えないものが出来上がってしまった…。
　床に散乱したマドレーヌを拾いながら、流石のブランカもため息をついてしまう。
「…すまない」
　云いながら鯨も、自分が放り投げてしまった型に絆創膏だらけの指を伸ばした。
「あっ、まだ熱いです！」
「〜〜っ！！」
　膨らまなかったスポンジケーキ。生焼けのバターケーキ。粉臭いクッキー。そして黒焦げのマドレーヌ。
　カウンターには失敗作があふれている。
「夜空のクジラがこれほど不器用だとは知りませんでした…」
　まぁ、もともと鯨ですから仕方ないとも思いますが〜。
　ブランカは店の出窓で育てていたアロエの最後の葉を切って、鯨の火傷に張りつけながら云った。
　お菓子作りは技術ではなく心だとブランカは信じている。が、悲しいかな向き不向きは歴然としてあるようだ。
　卵の泡立て一つとっても、足りなかったりやり過ぎたり、鯨にはどうしてもその加減が体得できなかった。
「やはり、わたしには月王様の望みを叶えることはできないのか…」
　あまり感情を表に出さない鯨が、黒い瞳を潤ませた…ようにブランカには見えた。
「何を弱気な。あなたらしくありませんよ。夜空のクジラ」
　普段は身だしなみに一分の隙もない鯨なのに、今やその両手は火傷や切り傷で絆創膏だらけ、艶やかな黒い髪も仕立ての良い服もエプロンも、粉と卵にまみれてドロドロだ。こんな鯨を見たことがない。
「これほど月天王を想っているあなたに作れないなら、私たちは作るお菓子の選択を間違えているのかも知れません」
　想いを伝えるお菓子には、贈る側と贈られる側、双方に相応しいものが必ずあるはずだった。
「もう一度、考え直しましょう。あなたが作る、月天王に相応しいお菓子を」
「月王様に…相応しいお菓子…」
　呟くようにくり返した鯨に、ブランカは大きく頷いた。


「で？」
　深紅のカウチに寝そべりながら、緋色の髪をした少女、日輪王・陽呼が先を促す。
「鯨は何かマトモに作れるようになったのか？」
「報告では、大変美味しいデザートを作れるようになったとありますが」
　報告書をぺらりとめくって、ブランカが答えた。
「ふん。失敗作の映像記録をとってないんじゃ、揶揄いようもないな。材料費と指導料を請求してやれ」
「またそんな…」
　ブランカがたしなめていると、
「陽呼様！　夜空のクジラから荷物が届いています〜」
　別のブランカが大きな壺を運んで来る。
「おぉ！　それはもしや！」
　勢い良く跳ね起きた日輪王の目の前に運ばれて来たのは、紛れもなく鯨特製の壺酒。
　猫にマタタビ、神様に鯨の壺酒。経費はこれでチャラにしてやろうとご機嫌の日輪王を見て、ブランカは苦笑する。
「夜空のクジラも抜け目ないですねぇ…」


　一方、こちら月の宮殿では…。
　地球を望む露台に、臨時のカフェがオープンしていた。
　白い丸テーブルに淡いオレンジ色のクロスを掛け、美しい模様を彫り込んだ白木の椅子には既に月天王が腰掛けている。
　鯨は黒いカフェエプロンをキュッと締め、銀の盆を片手で支え持つとテーブルの脇に立った。
「最初は何かなー？」
　ウキウキ顔で見上げてくる月天王を見ると、苦労も忘れて「か、可愛い…」とか思ってしまう鯨は存外幸せ者かも知れない…。
「シャンパンゼリーとグレープフルーツのマリネです」
　そう云ってテーブルに置いたのは、高台が高い陶器の器。
　灰褐色と白の混じった荒々しい作りの焼き物に、細かく砕かれたゼリーと淡いオレンジ色のフルーツがこんもりと盛られキラキラと輝いている。それはまるで、荒涼とした月面に凛として立つ月天王の城のようだった。
「姿も良いな。いい仕事だ」
　まずは金色の瞳で堪能してから、玻璃の匙で星の輝きにも似たゼリーを口に運ぶ。柔らかく仕上げてあるシャンパンゼリーは、口の中でシュワっと弾けて、つるりと喉を滑り落ちて行った。
「うむ…、面白い！」
　月天王は何度も匙を運び、その口当たりと喉越しを楽しんだ。
　次に鯨が出したのは、黒曜の小皿。
「こちらはブラマンジェ、アングレーズソース添えです」
　黒い皿に半球の型で作った真っ白なブラマンジェが映える。皿は夜空を、ブラマンジェは満月を模し、薄いクリーム色のソースは月光を模しているのだろう。
　アーモンドの香り高い濃厚な味わいと滑らかでまったりとしたシルクのような舌触りに、月天王は鯨がこれを作ったのかと驚かずにはいられなかった。
　口直しにと出された紅茶も、味・色・香り全てが申し分ない。
「ダージリンの最高級茶葉ですから」
　と鯨は云うが、茶葉の良さを最大限に引き出すには、それなりの手間と気配りが必要だ。
　明るいオレンジ色の紅茶から立ち昇るフルーツのように豊かで繊細な香りから、鯨がその手間を惜しまなかったことが伺える。
「…美味しい」
　月天王の口からこぼれた飾らない賛辞に、
「まだ、もう一品あるんです」
　鯨は慌てて背を向けた。耳が僅かに赤く染まっている。
　月天王はそれには気付かぬ振りをして、白い椅子に深く座り直した。
　最後に鯨が運んで来たのは、白磁のカフェボウル。両手にすっぽり納まるくらいの大きさで把手も何もない器に、卵色の液体が入っている。子供が描く月のように、まったりとした温かい黄色。
「それは？」
「マルサラ酒で作ったザバイオーネです。温かいままでも良いらしいのですが、これは冷やしてあります。その方が、月王様に似合うような気がしたので」
　添えられたビスコットを浸すと、とろりと絡み付いて、ゆっくりと流れ落ちる。
　口に入れるとマルサラ酒の香りが鼻に抜け、カッと喉の奥が熱くなった。
「こ、これは…っ！」
　月天王はビスコットを脇にどけ、カフェボウルを持ち上げるとそのまま口をつけた。
　お酒と卵黄で作る濃厚なカクテルのようなザバイオーネは、喉から身体の奥へゆっくりと落ちてゆく。冷んやりした喉越しのすぐ後を、アルコールの熱が追い掛けて、身体の芯まで染みてゆくようだ。
　ぐぐっと一気に器を傾けるいかにも飲ん兵衛な呑みっぷりに、
「月王様、もう少し味わってお飲みください」
　鯨は苦笑を隠せない。
　即席パティシエの儚い願いにはお構いなく、月天王は嬉しそうに瞳を輝かせ、
「お代り！」
　空のボウルを高く掲げた。
「これは旨いな。気に入った！　そうだ、今度一緒に作ろう！　鍋いっぱいに作ろう！」
「鍋いっぱい…って、そんなに飲んだら…太りますよ」
「……。せっかく盛り上がってるのに、ヤなこと云う奴だなー」
　子供のようにくしゃりと顔をしかめて、月天王は舌を出す。
「月王様はすぐ呑み過ぎてしまいますから、これくらいにしておきませんと」
　鯨はくすくす笑いながら、お代りをテーブルに置いた。
「…少しは、お気が晴れましたか？」
　静かに問う。
　それに答えるように、月天王は器ごと鯨の手を両手で包み込んだ。
「あぁ、充分楽しんでいる。お前には無茶をさせたが」
　まだ傷の残る指先を、そっとなぞる。痛みはない。体温のない月天王から暖かい波動が流れ込んで、鯨の指先を癒してゆく。
「そちらの手も寄越せ」
「いえ…、見苦しいだけで大した怪我ではありません」
「いいから」
　仕方なく差し出された手に、そっと月天王の手が重ねられた。
　月天王の身体が僅かに月光色を帯びている。世界のためにあるその力が、今は鯨の為だけに使われているのだ。
「月王様…もう、」
　鯨は耐えきれないように腕を引き、月天王から離れる。
　手の傷を治しているのに、身体の奥がほわんと暖かくて不思議な感じがするのは何故だろう。これも月天王の力のせいなのか。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
　傷一つない手を胸に当て、鯨は月天王に頭を垂れた。
「…今回わたしが作れたお菓子は、これで全部です」
「何だ、もう終わりなのか。まぁ、最初だし仕方ないな。面白かった。またやろう」
　月天王は満足げに云うとザバイオーネの入ったカフェボウルを手に、椅子に深く凭もたれて長い足を組んだ。
　今度はちびりちびりと味わって飲むことにしたようだ。
「ん〜、旨い。これに入ってるマルサラ酒ってやつ、そのまま呑んでみたいなー」
「……、お酒でよろしかったのなら、わたしの苦労は何だったのでしょう」
　恨めしい声で云う鯨に、月天王はニヤリと笑った。
「そうだったな。珍妙な物体を何枚も作り出したお前の苦労を、無駄にしてはいかんな」
「〜っ！！」
　バレてる！　あぁ、やっぱりあんなもの食ってしまえばよかった！
　失敗した直後はショックで食べることができず、始末に困って壺に隠した例の代物が脳裏を過る。
「わ、わたしは…その、ちょっと、後片付けをして参ります」
　月天王の意地の悪いニヤニヤ笑いで見送られ、鯨はそそくさとその場を辞した。
　鯨が証拠隠滅に精を出している間も、露台に残った月天王は手中の器を傾け続ける。
　コトン…
　空になった器がテーブルに置かれ、籠った音を立てた。
　月天王はふっと小さく息をついて天を見上げる。
　天には地球。そして星。そこに瞬くは数多の想い。
　直ぐにまた殺伐とした仕事に戻らねばならないのは、分っているのだが…。
「甘い夢…か。それもたまには悪くない」
　もう暫くはこのムーン・カフェで過ごしていたかった。

　想いを形に。
　例えば、甘く冷たいお菓子に変えて。

　大切なあなたへ…。

END