recipe7「ガトー・ショコラ」

　ここはどこだろう…？
　僕は…どこに行けばいいのだろう…
　僕の居場所なんて、どこにあるというのだろう…


　学生服の少年はその店の前で、入ろうかどうしようか随分長いこと迷っていた。
　中学1・2年生くらいだろうか。ひどく痩せて青白いその顔には、まだ幼さが残っている。詰め襟のホックを一番上までキッリチ止めている辺りに、少年の生真面目な性格が見て取れた。
　実際、生まれてこの方、ケーキ屋どころかファーストフード店ですら一人で入った事はない。第一、学生服姿のままで寄り道するのは校則違反で、バレたら学校にも親にもきっと怒られるだろう。
　けれど、今日は変なところに迷い込んでしまった。
　見渡す限り雲と空、それだけの世界。とても明るくて暖かいのに、どうしようもない不安感が足元から這い上がってきて、じっとしていられない。
　結局、少年は遠慮がちにではあったが、甘い香りが漏れてくるその扉に手をかけた。
　伺うようにゆっくり扉を開く。すると、上に取り付けられたクリスタルがゆらりと揺れて…

　ガンガラガッシャン！　ぐわわわわ〜〜ん！

　金ダライが落っこちて来たかのようなやかましい音が響いた。
「…っ？」 　
　少年はとっさに逃げる事もできず、扉に引っ付いて金縛り状態。
「あぁいいです、こっちは私が行きますから、あなたはそっちをお願いします」
　音を追うようにばたばたと慌ただしくカウンターから出て来たブランカは、ゆるく編んだプラチナブロンドの髪を大きく揺らして振り返ると、
「あっ…と、余計なものには触らないでくださいね！」
　カウンターの奥にいるらしい人物に念押しして、店内のあちこちに転がってしまったケーキの型を追いかけてゆく。
　丸い金属の板の一つが、じょわ〜ん　じょわ〜ん　と騒音の余韻を引きながら少年の足先にコツンと当たって、ようやく大人しくなった。
　夢中で型を拾い集めていたブランカの目が、その金属板と共に少年の靴を捉える。
「…コ、コンニチハ」
　扉に張り付いたまま、ぎこちなく云う少年に、
「いらっしゃいませ…」
　腕に幾つもセルクルを通したまま、仕事柄の条件反射でにこやかに返すブランカ。
　うらうらと暖かい光が満ちた店内で、二人は暫し見つめ合う。
　数瞬の間の後、先に動いたのはブランカだった。
　自然な動作で背筋を伸ばし、コホンと咳払いを一つ。それから空色のエプロンをパタパタと払って少年に向き直る。
「驚かせてしまってすみません。大変失礼致しました。さぁ、どうぞ奥へ」
　柔らかなアルトの声に促されて、少年はようやく店内へと足を踏み入れた。
　決して広くはないが、どの席でもゆったりとくつろげるようテーブルや椅子の配置が考慮されている店の中で、少年は敢えて窮屈そうなカウンターの端の席を選び、背もたれのないスツールに浅く腰を掛ける。
「ご注文は何になさいますか？」
　ケーキの型を片付けたブランカが問うと、
「えぇと…」
　少年は口籠り、落ち着かなげに視線を巡らした。
　カウンターの奥の一画。そこに作業場があるのだろう。磨硝子がはめ込まれているように白く滲んでいて中を窺うことができないが、影の動く気配があり、甘い香りもそちらから流れてくる。
「あっちで…、今、何か作ってるんですか？」
「？　…あぁ、はい」
　ブランカは後ろを振り返り、苦笑しながら頷いた。
「にわかパティシエの押し掛け１日講習で、チョコレートケーキを作っているんです。想い人にチョコレートのお菓子を贈ると、お互いの想いが深まるのだとか耳にしたそうで…」
　大層不器用だというそのにわかパティシエは、想い人に高度な課題を云い渡されて、泣く泣く？ブランカを頼ってきたらしい。
　好きな人に想いを込めた菓子を贈り告白するという行為が習慣化してから、それほど長い歴史があるわけではないが、少年が生まれた頃にはもう当たり前の行事になっていて、昨今では小学生や就学前の子供でさえ参加するほど一般的になっていた。
　少年のまだ短い人生の中でも、甘い想いと共にお菓子を渡された経験はある。
　だがそれは、決して甘い思い出にはなり得なかった。
　愛らしくラッピングされたその小さな包みを、少年はいつも
　───ゴミ箱に捨てていたから───。

　僕ノ居場所ナンテ、ドコニモナイ…。

「手本として色々作りましたので、本日はチョコレートケーキが充実しています。よろしければ、お一つ如何ですか？」
　ブランカの問いかけで我に返った少年は、胸の痛む思い出の呪縛から解放されて小さく息をついた。
　顔を上げるとブラウンの瞳が優しく少年を見つめている。気恥ずかしくて視線を下げるとそこには、いつの間にか厚手のマグが置かれていて、スチームミルクたっぷりのカプチーノから、ほわほわと暖かい湯気が立ち昇っていた。
　少年は細い指でマグに触れ、その温もりを確かめるように両の手のひらに包み込む。
「…はい。お願いします…」
　考えるより先に、言葉が口から滑り出していた。少年は自分の言葉に少なからず驚いていたが、ブランカは一向に気にしたふうでもなく、
「かしこまりました。では、とっておきのガトー・ショコラをお持ちしましょう」
　そう云って背を向けたきり、ケーキの準備に余念がない。
　カチャカチャと皿やフォークの触れ合う微かな音が、店の空気にさざ波を立てる。
　耳に優しいその音を聞きながら、少年はぼんやり考えた。
　辛い思い出に繋がるチョコレートケーキを、食べる気になったのは何故だろう。
　からっぽだった自分の中に満ちてくる、この気持ちは一体何だろう。

　 涙サエ枯レ果テタコノ身体ニハ、モウ何モ残ッテナンカイナイノニ…。

「お待たせしました」
　サーモンピンクの小皿に、そのケーキはちょこんと乗せられていた。
　手のひらサイズのハート形ガトー・ショコラ。ゆるく立てられた生クリームがトロリと流れて、添えられたラズベリーの赤がより鮮やかに映えている。
「…これが、ガトー・ショコラ？」
　少年は、小さな翼があしらわれた銀のフォークを手に取ったものの、なかなかそれをケーキに入れることができないでいた。
「表面割れてるし真ん中へこんでる…。見習いさんが作ったやつですか？」
「いいえ。確かにこれと同じものを練習してはいますが、こちらは私が作ったもので失敗ではないのですよ。このケーキは、焼いていると先に表面が乾燥してパリパリになるので、膨らむにつれ自然にひび割れが起きて様々な模様が生まれるのです。それをケーキの『表情』と呼ぶ人もいますね。粉が少ししか入っていないので、オーブンから出すと膨らんでいた中央部分は大きく沈んでしまいますが、それも含めて、同じ『表情』のものは世界に二つとないケーキと云われています。初心者にも簡単に美味しく作れますから、オンリーワンの贈り物として、今頃は多くの人々がこのケーキを焼いているでしょう。さぁ、どうぞ召し上がれ…」
　ブランカに促されて、少年はそっとケーキにフォークを入れる。
　ケーキは、外側こそ皮が張ったようにパリパリと崩れたが、中は見た目よりもずっと柔らかくしっとりしていた。一口くちに入れると、チョコレートの濃厚な甘さと香りが広がり、まったりと舌にからんでから溶けるように喉を滑り落ちる。後にはカカオの苦味がほのかに残るだけで、思ったほどしつこくもない。
「美味しい…」
　生クリームのソースと絡めると口当たりもマイルドになり、更に食べやすくなった。ラズベリーの酸味は見た目だけでなく味のアクセントとしても効いていて、小さな皿の中で全てが全てを支え補っている。
「何だか、優しい味がする…」
「…えぇ、愛がこもっていますから」
　微笑んで答えるブランカの口から出た『愛』と云う言葉。それは、決して軽く薄っぺらなうわべだけの言葉ではなかったけれど。
　愛というものは全てを救い解決する強大なもので、それが得られないから自分は不幸で生きる価値がないのだと考えていた少年には、この『普遍に存在する小さな愛』が、すぐには理解できなかった。
「でもこれは、僕のためのケーキじゃないでしょう。僕が来る前に作ってたんだから」
　自分を深く知りもしない人が示す好意など信じられない。
「食べてくれる方が、少しでもホッとしたり嬉しくなったり、優しくなったりできる時間を持てますように、と想いを込めて作ったのです。あなたはこのケーキを食べて『優しい味がする』とおっしゃいました。これは、私の想いを受け取ってくれたあなたのためのケーキです」
　ブランカの静かで優しいアルトの声は、同時に心に響く強さも持っていた。その言葉には一片の偽りもないのだと。
「…でも、そうだとしても、それは僕の望みとは違う」
　彼は、親に愛されなかった。
　普通の子供が当たり前に与えられる平和と安らぎを、彼は一度も得ることができないままここまで来てしまったのだ。
「母は、僕が生まれたことで自分は不幸になったと云っていた。かといって僕を捨てることも世間が怖くてできなくて…。弱い人だったから…。そのジレンマに耐え切れなくなって…心が壊れてしまった」
　父は崩れてゆく家庭を顧みず、早々に逃げ出して余計に母を追い詰めた。父もまた弱かったのだと彼は思う。欠けたところを補い合うことができない、彼らはそういう意味で似たもの夫婦だった。
「僕だって何もしなかった訳じゃない。云い付けは守ったし、勉強だって一生懸命やった。自慢の息子になれば、僕のことを好きになってくれるかも知れないと思ったから。だけど…、僕が頑張れば頑張るほど、母は不機嫌になって…。僕が誰かに優しくされたり好かれたりするのをひどく嫌がった。自分を不幸にしている僕が幸せになるのが許せないと云って…」
　だから、彼に何も与えず、彼が手に入れるもの全てを捨てさせた。
　本も服も、友達も、外出する自由も、食事さえも…。
　両親の愛情、安らぎの家庭、欲しいものの何一つも得られなかった彼は、絶望の果てに全てを望まなくなった。

　全てを。

「……可哀想に」
　声と共に少年の視界を蒼い空が覆う。
「?!」
　それは甘いお菓子の香りとお日様の匂いがする、ブランカのエプロンだった。
　何が起こったのかすぐに分からなかったのは、こんなふうに優しく抱きしめられた経験がなかったからだ。驚きと、そのあまりの心地よさに振り払うことができない。けれど。
「同情や気まぐれな優しさなんていらない」
　一時の優しさにすがってひどい目に合ったことがある。それは彼を傷付け絶望を更に深くした。
　欲しいのは揺らぐことのない大きな愛だけ。それが得られないなら、全部いらないと少年は頑なに心を閉ざしていた。
「同情は嫌いですか…？」
　ブランカは少年の髪をそっと撫でてから、ゆっくりと身体を離し視線を少年のそれと合わせる。
「同情は…蔑みと同じだ」
　少年は絞り出すように云って唇を噛んだ。
「確かに、同情の裏に“自分がそうでなくて良かった”という感情が隠れていることもあるでしょう。でも本当の同情とは、違う境遇にある人が同じように心を痛める優しい感情のことだと、私は思うのです」
「優しい感情？　同情が？」
　ブランカは、少年の揺れる瞳を見つめ続ける。
「全てがそうだとは、云いません。でも、その小さな優しさの中に、あなたの求めるものへと続く道が隠れているかも知れない…」
　諦めて何もかもを拒絶してしまったら、出口への光も道も見つからず、誰にも気付いてもらえない。 苦しいなら、余計に目を見開き両手を広げ、大いにもがいて声を上げなければ。
　諦めるのは、できることを全部試してからでも遅くないのだから。
「まだ…間に合うかな…？」
　ブランカを見つめる少年の瞳から涙が溢れた。もう、一滴の涙も出ないと思っていたのに、後から後から溢れる暖かな雫が、まだ幼い頬をつたって胸を濡らす。頑なだった心が、解けてゆく。

　『あなたのためのケーキです』とブランカは云った。
　愛とは、許すこと、許されることかも知れない。
　少年は、ずっと許されたかった。
　……存在していても、いいのだと。

　優シクシテ欲シイッテ、思ッテモイイノ…？　諦メナクテモ、イイノ…？

「えぇ。まだ時間はあります。それに、あなたは私のケーキを食べて下さいました。あのケーキは……」
　その時、突然辺りを震わせるほどの大音響が響き渡り、ブランカの言葉をかき消した。
　それは巨大な生き物の鳴き声のようにも聞こえる『音』。『振動』と云った方が近いかもしれない。
　高く低く共鳴しながら途切れることなく響く音が、二人の身体と店内の食器やテーブル、椅子、果ては窓ガラスまでもを震わせている。しかも発生源は、奥の作業場のようだ。
「な、何…？」　　
　怯える少年に、ブランカは心配ないと微笑んで何かを云ったのだが、その声も良く聞き取れなかった。
　そのうち、視界も、座っているはずの身体も、何もかもが揺らいで不安定になる。
「…何？　やっぱり怖い！　僕…」
　伸ばした手を、握り返した暖かくて柔らかい手。

　大丈夫　ここにいるから…　そばにいるから…

　瞬間、音も、ブランカも、空も雲も、
　全てが白いもやに霞んで、
　消えた。



　……何だか周りが騒がしい。
　少年はざわつく殺風景な白い部屋で、泣きながら目を覚ました。
　あの不思議な『音』の余韻なのか、身体も頭も痺れて状況が良く分からない。
「よかった。目が覚めたのね」
　そう云って、涙を拭ってくれたのは白衣の看護師だった。他にも医師や数人の看護師が慌ただしく部屋を出入りしている。
「ここ…病院ですか？　僕、生きてるんだ…」
「…そうよ。気分はどう？　どこか痛いところとかあるかしら？」
　ざっと部屋を見渡したが、見知った顔は一つもないようだ。少年はそのことに、少なからず落胆した。
「…いいえ」
　点滴の針が刺さった腕も、寝たきりだった体のあちこちも実は痛かったのだが、それより今は心の方がキリキリと痛んで辛い。しかし、それをこの看護師に云っても解ってはもらえまい。
　やはり、あれは都合の良い夢だったのだ。少年は冷めた気分で苦笑する。何度希望を打ち砕かれても、あんな夢を見てしまうなんて滑稽だと。その時。
　カサリ…
「？」
　胸の上にある何かが音を立てた。
「あぁ、それ、お友達が持ってきたの。ホラ、今日は2月の14日だから。彼女、毎日ここへ来てずっとあなたの手を握ってたのよ。今日もさっきまでいたんだけど、今は電話をかけに行ってるみたい。まぁ、すぐに飛んで戻ってくるでしょうけどね」
　ふふふと笑って、看護師は自分の仕事へ戻って行った。
　サーモンピンクの包装紙に赤いリボンを掛けた、片手で持てるくらいの四角い小箱。
　震える指でリボンを解くと、中には不格好に傾いたハートのガトー・ショコラがちょこんと納まっていた。
　想い人に贈れば、お互いの想いが深まるというチョコレートのお菓子。
　表面に刻まれた『表情』のひとつひとつが、そのケーキが特別であることを物語っている。
　『あなたのためのケーキです』と、柔らかいアルトの声が聞こえるようだ。
　添えられたカードに記された華奢な文字が、再び少年の視界を滲ませる。

　　あなたは信じないかも知れないけど、信じてくれるまで何度でも云うから。
　　諦めないで何度でも云うから。
　　私は、傷付くことの痛みと、本当の優しさを知っているあなたが好きです。
　　何もしてくれなくていい。
　　ただ、あなたが私と同じこの世界にいてくれるなら…。

　幾度、彼女を拒絶して傷付けただろう。その度に、もう次はないと絶望感を募らせた。
「まだ…、間に合うのかな…」
　少年の呟きは、忙しい看護師には届かなかったようだ。
　改めて病室を見渡せば、壁には幾つもの千羽鶴が。クラスメイトや先生の寄せ書きも1枚や2枚ではない。　
「今からでも、僕の居場所…、見つかるのかな…」
　開け放したままのドアの向こうから、バタバタと走る足音が近づいてくる。
「こらぁ、病院内で走っちゃいけません！」
　そういう看護師の声が笑っている。「走らず急げ」と大きく手招きしながら。
　少年は、わざとドアとは反対の方を向き、窓越しに抜けるような蒼空を見つめて…、待っていた。
　足音の主が、もう一度彼の手を握ってくれるのを。
　今度はその手を握り返そうと心に誓いながら。

Fin