recipe7「ガトー・ショコラ」おまけ

　一方、こちらは少年が去った雲の国。
「こ、んなところで、唄うからですよ。…夜空のクジラ」
　ブランカは笑いを堪えることができずに、肩を震わせながらカウンターの奥へ声を掛けた。
「……」
　それに応えるように、作業場とカウンターを隔てていたものが消え去え、もうもうと立ち篭める小麦粉の煙りの中から、粉まみれの黒い人影がのっそりと姿を現わした。
「あんなところに何故粉を置いておく。しかも10kgの大袋…、ケホ…。わたしを狙ったとしか思えない」
　手で粉を払ってみるが、細かい粉はいくら払ってもなくならない。髪も服もエプロンも黒づくめの為、払ったところが手の形に白く残る始末。
「さぁ？　私は袋を上げた覚えがないのですが…」
「・・・・日輪王か」
「・・・・」
　さもありなん。ブランカは笑いを堪える為に返事ができない。
「わたしがここで唄うことを予想していたのか…。何と云う性悪…！」
「ぐ、偶然では…？」
「この雲の国で偶然などあり得ないと知っているクセに」
　きっぱりと云い放って、黒衣の鯨は短く一声哭いた。その微細な振動で一瞬のうちに粉が振り落とされ、しっとりと光沢のある黒髪と銀糸で月を刺繍した黒いエプロンが本来の色を取り戻す。
「私はあなたの唄がこんなに近くで聴けて幸せでしたけれど」
「…ふん。言霊を喰ろうて唄うのはわたしの仕事だ。月王様の為に当然のことをしたまで」
　ブランカの為に唄ったのではないと云いながら、鯨の漆黒の瞳に怒りは見えなかった。
「そう云えば、例の物は大丈夫ですか？」
「無論だ。粉のひと粒も付かぬよう死守した」
　鯨が大事そうに取り出したのは、黒く輝く小さな箱。星の輝きを思わせる銀のリボンが一重に掛けられている。
「よかったですね。たった一つの完成品が無事で。もう一度作り直すことになったらちょっと大変かもとドキドキしました」
　あはは、と屈託なく笑うブランカ。
「…同感だ」
　お互い大層苦労した結果なので、無事を喜ぶ言葉にも実感がこもっていた。
「とにかく。これが完成したことについては感謝する」
　律儀に頭を下げる鯨に、
「月天王様によろしくお伝え下さい」
　ブランカも笑顔で応える。
「あなたが唄って下さったおかげで、あの少年の想いも誰かに届いたことでしょう」
「目の前に負の感情がこもった言霊があったから、喰ろうて唄った。別にあの者を特別扱いしたわけではない」
　それでも、この場で唄う判断をしたのは鯨の思いやりだろう。狭い厨房で唄ったお陰で、粉まみれになってしまった訳だが…。
「長居をしたようだ。わたしはもう帰る。世話になった」
　鯨はエプロンを外し、ケーキの入った小箱を丁寧に懐へとしまう。
「はい。楽しい時間でした。また来て下さいね」
　ブランカの言葉に、鯨は本気で嫌そうな顔をした。本来自分の居場所ではないこの雲の国で、不得意なお菓子作りをまたしなければならない時が来るなんて、考えたくもない。
　しかし、もう二度と来ないとも云い切れない鯨は、月天王の『甘いものブーム』が早く終わってくれることを切実に願うのだった。
　無言で去ってゆくちょっとお疲れ気味の黒い背中が、蒼空の果てへと消えるまで見送りながら、ブランカは思う。

　人は　弱い。
　　誰もが心に痛みを抱えている。
　人は　強い。
　　それでも生きてゆくのだから。

　方法は何だって構わない。
　例えば、鯨の唄とか。
　世界に一つのガトー・ショコラとか。

　想いを伝えることを諦めなければ、心の弱さに負けないでいられると、
　ブランカはそう信じていた。

Fin