「月の種　鯨の泪」

「何をなさいます！」
　鯨が珍しく慌てた声を上げたのには、勿論理由がある。
「いいから大人しく押し倒されなさい」
　云いながらぐいぐいと鯨にのしかかるのが主である月天王でなければ、とっくに投げ飛ばしているところなのだが。
「何故わたしが月王様に押し倒されねばならないのですか」
　訳が解らないまま半分床に押し倒されたものの、肘をつっぱった状態からは一歩も譲らない。もともと鯨である。力比べならば、簡単に負けるのは癪だ。
「理由をおっしゃって下さい」
　でないと遊んであげません、と踏ん張る鯨。こうなるともう押しても押してもびくともしない。
　月天王は、むーん、と頬を膨らませたあと、大げさにため息をついて、鯨の傍らに座り込んだ。
「いやなに、そろそろお前のストレス発散の時期ではないかと思ってな」
「わたしの…？」
　鯨は人の言霊を喰らって月に唄うのが仕事だ。負の感情が凝った言霊でも、美しい唄声に変えて、月光に溶かす事ができる。
　悪食で大食漢を信条とする鯨だが、唄いきれなかったわずかな言霊が、長い年月の間に積もり積もって心の澱となり『胸焼け』を起こす事があった。
　鯨自身の力でそれを解消するのは難しく、一時は仕事が滞りひどく悩んだりもしたが、その度に月天王の力を借りた「ストレス発散」で凌いできたのだ。
「最近また胸焼けがすると云っていただろう」
「それはそうですが…。何やら今までとはやり方が違うような」
　以前は鯨の生まれた海を月の宮殿内に作り、そこで思うさま泳ぎ回る事で心を解放していたのだが。
「毎回同じでは飽きてしまうだろう(私が)。だから趣向を変えてみようと(面白そうだし)」
「……」
　それがどうして押し倒すという状態になるのか、まるで分からない。が。
「それならそうと云って下されば良いでしょう」
　月天王が自分の為に何かすると云っているのに、鯨に否やがあろうはずもなく。
　神妙な顔で横になると、月天王を見上げこう云った。
「さぁどうぞ」
　まな板の上の鯉ならぬ、床の上の鯨状態。
「で、わたしはどうすれば良いのですか？」
　大まじめなその姿を見て、今度は月天王の方がたじろいだ。
「え、あ、…いやその、え〜と」
　実は鯨が焦ったり困ったりするのを面白がっていた、などとはちょっと云えない。
「あ〜、お前を泣かせようと思ったのだが、どうやら失敗したようだ」
「わたしを、泣かせる？　首でも締めるおつもりだったんですか？」
　鯨は人間のように泪を流して泣く事はない。何しろ鯨だから。
「いやいやいや…。まぁ、いいじゃないか。押し倒し作戦がダメなら、別の方法もあるさ」
「やっぱり、面白がってたんですね？」
　・・・バレてる・・・。
「いやいやいや、あはははは。まぁ、いいじゃないか。さぁ、起きて起きて」
　白々しく誤摩化して、鯨の体を起こさせる。
「もう…、寝かせたり起こしたり。なんなんですか」
　流石の鯨も少し不満気だ。
「体勢は問題じゃなくてだな、要は心持ちってこと。じゃ、口開けて」
「は？」
　意表を突かれて口を開いた、その一瞬に。
　何か小さなものが、月天王の手から鯨の口へ放り込まれた。
「んぐ」
　反射的に飲み込んでしまう。
「けほ…。の、飲んでしまった…。一体なんですか今の。まさか、正露丸糖衣？(胸焼けだけに)」
　少しだけ甘かったような気がして、そんな事を口走る鯨。月天王は笑って答えた。
「いや、種だ。『月の種』をお前の中に蒔いた」
「月の種…。それは何ですか？」
「お前の涙で育つ種。案ずるな、別に口から花が咲いたりはせん」
　そんな説明をされてもよく分からない。
「わたしは、泣きませんが」
「ほう？　そうか？」
　月天王は鯨のみぞおちの辺りに手をかざした。
　すると触れているわけでもないのに、冷たかった腹の辺りがじわりと暖かくなってくる。それはだんだん胸へ喉へと昇ってゆき、最後に鼻の奥まで来ると、つんと沁みて泪になった。
「あ…」
　ぽろり。こぼれた泪は、月天王の手のひらで一瞬弾け、そして消えた。
「これはお前の中にあった言霊の結晶だ。いわば胸焼けの素だな。消し方は色々あるが、今回はこれを糧に育つ種を蒔いてみた」
　云われてみれば、胸焼けのような症状は随分と薄らいだような気がする。
「育つとどうなるのでしょう」
　口から咲かずとも、頭に花が咲くやも知れぬ。
「さて、どうなるんだったかな」
　その言葉に、何とも云えぬ顔をした鯨を見て、月天王は満足気に微笑み、
「まぁ、月の種だ。悪いものではないさ」
　これにて一件落着とばかりに立ち上がった。
「月王様、面白がってないでちゃんと教えて下さい」
　逃すものかと鯨もつづく。
「いやいやいや、あはははは」

　鯨の中に　月の種。
　鯨の泪は　種の糧となり
　種を芽吹かせ育てるだろう。
　遥か未来に　どんな花が咲き　どんな実を結ぶのか

　まだ　誰も知らない。
　だから　楽しみに待っていよう。
　君と一緒に。

おわり
『月の種　鯨の泪』2006年１月31日発表作品