recipe8「恋するプリン」

　雲の大地に建つ『空のケーキ屋さん』から、卵とヴァニラの甘い香りが立ち昇っている。
　その香りに誘われるように、人影が一つ、お店の前で足を止めた。
　長年陽に晒され飴色に焼けた手がゆっくりドアを押すと、取り付けられたベルが高く澄んだ玻璃の音を生む。ブランカはその優しい音色に待ち人の来訪を知り、エプロンを翻して出迎えた。
「いらっしゃいませ」
　入ってきたのは小柄な老人。歳の頃は、70前後だろうか。
「こんにちは。ここは相変わらず気持ちの良いお天気ですね」
　中折れ帽を脱ぎつつ、軽く会釈する。
　干し草色のシンプルだが仕立ての良いスーツに、立襟のシャツを着込み、胸ポケットからは小さなチーフが覗いている。洒落た装いも嫌みなく着こなすセンスは、長く培われたものだろう。
「予約していた者ですが、席はありますかな？」
　穏やかで紳士的な物腰に、歳を重ねた風格が感じられるが、黒目がちな小さい瞳には若い頃の面影があった。
「勿論。どうぞ、こちらへ」
　ブランカが指し示した席は、丸窓の下の小さな二人席。弧を描いたテーブルは、恋人同士が寄り添って窓を眺められるように、少し小さめになっている。
　老人は一瞬おや、という顔をしたが、すぐに得心した様子で頷き、
「ありがとう」
　と云って店内へ足を踏み入れた。老人が歩くたび、使い込まれた紫檀のステッキが床に軽快なリズムを刻む。
　頭髪も眉毛も形の良い口ひげも全て柔らかな白髪で、顔には幾筋も皺が彫り込まれているが、その足取りは軽く若々しかった。
　立てかけたステッキに帽子を乗せ、老人が席に落ち着いた頃を見計らって、ブランカは声をかける。
「ご注文は、お伺いしていたものでよろしいですか？」
「えぇ、変わりありません。注文していた通りプリンを。そう『恋するプリン』が踊り出すようなものをね」
「恋するプリン…？」
「私は彼女を、私の恋人をそう呼んでいたんです。今日はそれをネタに思いっきり惚気ようと思って来たのでね。そのためにも、是非美味しいカスタアド・プディングを、お願いしますよ」
「かしこまりました」
「あ、それから、ホットチャイもね。きりっとシナモンの効いたやつをよろしく」
　老人は茶目っ気たっぷりにウインクして笑う。
　ブランカも笑顔を返し、キッチンへ戻って行った。

　銅製のミルクパンでチャイを沸かすわずかな時間、老人は問わず語りに『あれから』の事を話しだす。
「初めてここへ来た時の事は、良く覚えていますよ。まだほんの子供でしたけれどねぇ。戦時中、爆撃音と悲鳴が町中に響いていました。暗くて狭い防空壕の中で、息をするのも苦しくて…」
　気がつくとこの雲の国に立っていたのだ。
「何故かここの方が怖かった事を覚えています。こんなに穏やかで綺麗な場所なのに、変ですよね。でも、それだから余計に怖かったのかも知れません。いやだいやだーって目をつぶったら、世界が崩れるような大きな音がして目の前が真っ白になった。防空壕が崩れたんです。それで外に出られた。あのまま防空壕にいたら生きていなかったかも知れません」
　そうして老人は大戦を生き延びた。
　二度目にここへ来たのは、大きな災害に巻き込まれた時だった。
「あの時はもう本当にダメだと思いましたよ。家も家族も失って、精神的にも打ちひしがれていた…。私もこのまま一緒に、と気弱になって。けれどここであなたに会い、家族の思い出のプリンについて話すうちに、気が遠くなってしまって。目が覚めたら病院のベッドの上でした。結局、私はまた生き残ったわけです」
　老人は組んだ指を顎にあて、小さく息をつく。
「一体何が私を生かしたんでしょう。答えを探して、その後の人生を精一杯歩いてきたつもりですが、この歳になってもよくは分かりません。…ただ、」
　キッチンから銀の盆を持ったブランカが出てくると、老人はテーブルについていた肘を下ろした。そしてポケットからするりとチーフを取り出して、胸元に挟む。これでプリンを迎える準備は万端だ。
「あの時ここで注文したプリンを食べ損なったのは、不謹慎ながら大層残念でねぇ。それからは年甲斐もなくプリンに目がなくなりましたよ。やっと今日ご対面というわけです。何だかドキドキしますね」
「お待たせしました。カスタアド・プディングです」
　白磁の小さな皿に、薄卵色のプリンの山がすくっと立っている。平らな頂きに琥珀色のカラメルを湛えたぴかぴかのプリンは、テーブルへ置かれてふるん…と揺れた。
「焼きたてですか。これは美しい」
　黒目がちの小さな瞳をきらきら輝かせて。
「私、昔より味にうるさくなりましたよ。覚悟して下さいね」
　先の平たい銀の匙を、なめらかなプリンにそっと当てる。
　それは程よい弾力を持った薄卵色の山に吸い込まれ、半ばまで埋もれた後、ぷるん、と山の一角を掬い取った。とろりとしたカラメルが、その断面をゆっくり流れてゆく。
「この細かいつぶつぶはヴァニラ・ビーンズ？　ん〜、素敵な香りだ」
　目と鼻で存分に楽しんだ後、匙をゆっくりと口に運ぶ。
「んふ」
　まだ温かいプリンを一口含んだとたん、甘いカスタアドとヴァニラの香り、そして苦甘いカラメルが口いっぱいに広がった。老人の顔に幸せそうな笑みが浮かぶ。
「美味しい…！　甘さも苦みも香りもしっかり効いてるのにしつこくない。しかも、このなめらかさといったらもう！　これは『恋するプリン』そのものです」
　匙を持ったままパチパチと拍手する。
　ブランカは困ったように微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、それほど難しい技などはないんですよ。卵液を目の細かいシノワで丁寧に漉せばなめらかになりますし、ゆっくり湯煎焼きすれば、むやみにすが入ることもありません」
「手を抜かないきめ細やかな気配りの賜物と云うわけですな。あぁ、彼女がこれを食べたなら、どんなにか面白い反応が見られるでしょうに…」
「面白い反応、ですか？」
　ブランカは、温めたカフェボウルに陶器のポットからチャイを注ぎ、シナモンスティックでくるりとかき混ぜてから、プリンの横へ置いた。白い湯気と共に、シナモンの香りがほわほわと立ち昇る。
「えぇ。私の恋人はまだ20代なんですよ。凄い歳の差でしょう？　彼女はとても感激屋さんでね。美味しいものを食べると踊ってしまったりする、可愛い人なんです」
「踊る…」
　そんな場面が想像できないのだろう。妙な顔をするブランカに、老人は声を上げて笑った。
「私の人生を、意味のあるものにしてくれた女神です」
　カフェボウルを両手で持ち上げ、ふーふーと息を吹きかけてから、一口。火傷しない程度に熱いチャイが喉を流れ、鼻へと香りが抜けてゆく。
「んん、これまた美味ですな。ほのかな甘みと、シナモンの刺激的な香りが紅茶と良く合ってる。砂糖は入ってない？　なるほど。するとこれはミルクの自然な甘みなわけですね」
　ほぅ…、と一息ついて、チラッ。上目遣いにブランカを見る。
「…もっと惚気ても？」
　ブランカは吹き出してしまいそうになり、慌てて口元を押さえたのだけれど、
「どうぞ。…ご存分に」
　声は震えていたかもしれない。
　惚気相手を確保した老人は、安心して心ゆくまでプリンを味わい、チャイで喉を潤した。
「馴れ初めはプリンが有名なカフェで隣り合わせたのがきっかけでね。その時も彼女は、美味しいと云って踊ってました。私もその気持ちは分かりましたから、すぐに意気投合しまして。それからは二人でよく食べ歩きしたものです。彼女はいつも元気で明るくて、それはもうどこへ行っても人気者でしたけれど、年寄りの私といる時は無理に元気良くしなくてもいいので、気が楽だったのでしょう。よく怒ったり、文句を言ったり、時には泣いてしまったりすることもありました。本当は正義感が強くて繊細で、傷つきやすい人なのです。本人は後で大層後悔するようですが、怒ったり泣いたりしてる顔もまた可愛いくてねぇ。私は豊かな感受性を持つ彼女を通して、世の中をもう一度見つめ直していたような気がします」
　老人は、ふっ…と、隣の席へ目をやる。まるでそこに彼女がいるかのような、優しく柔らかな表情で。
「大戦と災害の生き残りである私の命は、人様の犠牲の上に立つ預かり物であり、人様のために使わねばならぬと、私はずっとそう考えて生きてきました。ところが彼女は私に『あなたはもっと自分を幸せにするべきだ』と云うのです。『今まで何十年も働いて、社会に貢献してきたじゃない』と」
　あの時。常に自分を犠牲にしようとする老人に痺れを切らせた彼女は、やおら立ち上がり拳を握ってこう云い切ったのだ。

『まだ遅くないから！　たった今から！　私と一緒にっ！　幸せになろう！』と。

「ふふ…、なかなか見事な口説き文句でしょう？　もう彼女にはやられっぱなしなんですよ。大荷物を一人で背負って歩かなくてもいいのだと、許されたような気持ちになりました。ずっと、誰かにそう云って欲しかったのかも知れません。もともと私独りで背負いきれるようなものではなかったのです。彼女はそれを気付かせてくれた」
「…素敵な方なのですね」
　ブランカの言葉に、何度も大きく頷く。
「このプリンのように、甘くて時々ほろ苦く、シンプルだけれど奥が深くて、とても優しい…。私の恋するプリンは、世界中探しても他にはいない特別な人です。彼女と出会って、やっと私は生きることに前向きになれた。過ごした時間は短くても、私にはこの上ない蜜月でした」
　カチャ…と微かな音を立て、老人は匙を置いた。空になった皿を前に「ご馳走様でした」と礼をする。
「楽しい時間は短いものですね。老体をも顧みず人生を謳歌していたら、またここへ来てしまったと、そういうわけです。三度目の正直とも申しますし、そうそう奇跡も起こりますまい」
　いつの間にか、身体の周りに小さな光の粒が漂い始めていた。
「そろそろ…、時間ですかな」
　立ち上がり、帽子を取ろうとする老人を、
「少し様子が違うようですよ」
　ブランカは引き止める。
「？」
　光は次第に数を増し、いったんは老人の身体を包み隠したけれど、すぐにさーっと吸い込まれるように消えてなくなった。
「…これは、一体…？」
　光に代わって老人の体を包んでいたのは、繊細な光沢を放つシルクのタキシード。
「良くお似合いですよ。恋するプリンさんからの贈り物でしょうか」
「は…、ははは…。参りましたね、何とも…。彼女らしい…！」
　老人は大らかに笑った後、ふいに言葉に詰まり、片手で顔を覆う。
「…っ…。彼女と…、一緒に、もっと生きて、もっと幸せになりたかった…」
　それは本心。
「初めから、そう遠くない未来にこういう日が来ることは分かっていました。でも、離れることが出来なかった。最後に悲しい思いをさせると知っていても、彼女と一緒に過ごす幸せな時間をどうしても手放せなかった。そのことを、ずっと申し訳なく思っていました。だから、私との思い出が悲しみしか残さないなら、全て忘れて欲しいとさえ考えた。でも…」
　老人は顔を上げ、背筋を伸ばす。
「彼女は強い人です。この礼装はきっと彼女の決意の表れ。私も、もう覚悟を決めなければいけませんな」
　そう云って微笑んだ瞳に、もう泪はなかった。
　足先や指の先から、先ほどとは違う柔らかい光が立ち昇り、老人の身体の輪郭が次第にぼやけてゆく。
「最期まで生きることに前向きでいたあなたの姿勢が、恋するプリンさんに大きな力を与えたのでしょう。だからここまで形ある想いを飛ばすことができたのだと、私は思います」
　そうやって、彼女の中にあなたの生きた証が残るのだと。
　ブランカの言葉に、老人は嬉しそうに微笑んで、窓から見える蒼空へと視線を向けた。
　この空は、彼女が見上げる空まで続いているはずだ。
「さて…」
　中折れ帽はタキシードには似合いませんねぇと呟いて、紫檀のステッキだけを手に取る。
「いつか彼女がここへ来て、もしもプリンを頼んだなら、どうか今日のプリンを、『恋するプリン』を出してあげて下さい。彼女もきっと気に入るでしょうから」
「確かに、承りました」
「…ありがとう」
　老人は店に入って来た時と同じように軽く会釈をして…、そうして静かに光の粒となった。


「本当にそんな格好で来るなんて」
「いいじゃない。火葬場に白いワンピースの美少女なんて、絵になるでしょ？」
「母親の私が云うのもなんだけど、『美』でも『少女』でもな…」
「あの人を黒い服なんかで送りたくなかったの」
「何云ってるの。彼にタキシード着せたのはどこの誰？」
「だーかーら！　あの人がタキシードで、あたしが白のワンピースなの」
「…彼は結婚は望まなかったはずよ」
「分かってる。これは、あたしのけじめ。あの人はもう一生あたしのものなんだって。一緒に幸せになろうって約束したんだもの。あたし今までも幸せだったけど、これからだってもっと幸せになる。あの人の分まで、楽しいこといっぱい経験して、美味しいものいっぱい食べて。あの人を忘れないで幸せになるわ」

　少し冷たい風に乗って、白い煙が昇ってゆく。蒼空の遥か高みへと。
　恋するプリンは白いワンピースを着て、いつまでもいつまでも空を見上げていた。

Fin