recipe5「デビルス・フード」

　雲の国は不思議な場所だ。
　その名の通り一面が空と雲ばかりで、暑くなく寒くなく、
　天は光で満たされているのに、どこにも太陽が見えない。
　静かなのに、どこからかさわさわとささめきが聞こえるような気がする。
　いつも穏やかな風が吹き、紺碧の空に真っ白な雲が終わらない絵を描いている。
　訪れた人は皆、この「永遠に変わらない」ようでいて、
　実は「一瞬たりとも同じでない」風景に、驚きと懐かしさを覚えて戸惑うのだ。

　ここはどこだろう、と。
　自分はどこへゆくのだろう、と。


　ひょう…
　冷たい風が吹いて、ドアに取り付けたクリスタルがキン…ッと硬い音を立てた。
　流れ込む空気が氷のように冷たい。ブランカがドアに目をやると、そこには男が一人立っていた。
　肩を大きく上下させ、息を乱している。浅黒い肌に黒い髪、短いがしっかり生え揃った髭。年齢は20代後半といったところだろう。痩せた身体にタンクトップと迷彩柄のパンツ姿。背後を気にしてダークブラウンの瞳が落ち着きなく揺れている。
「いらっしゃいませ」
　ブランカがいつもと変わらぬ声をかけると、初めてその存在に気付いたように男は視線を店内に向けた。
「…すまない。客ではないのだ…。私は、迷ったようだ…」
　纏う空気とは裏腹に、男の物腰は丁寧で柔らかく、戸惑う様子は気弱にさえ見える。
「どちらへ行こうと？」
　ブランカの問いに、乱れた呼吸を整えていた男は短く
「地獄へ」
　と云った。
　よく見ると男の顔や手や身体はひどく汚れている。泥や土や草に混じって、赤黒い汚れも少なくなかった。
　男は気持ちを鎮めようとするかのように、何度か大きく息を吸い、吐く。最後に吐いた息はため息となった。
「私の行くべきところは決まっている。まさか道に迷うとは思いもしなかったが…」
　口を歪めて苦笑する。
「…。あいにくと地獄への行き道は存じませんが、取り敢えず中へ入って休息されては如何ですか？」
　ブランカは、ドアの外に立ったままだった男へ手を差し出した。
「いや、私は…」
　慌てて半歩下がった拍子に肘がドアに触れる。そこに付いたのは、赤黒くまだ乾き切っていない血痕。
「怪我を？」
　尋ねるブランカに、男は頭を振った。少なくとも自分の血ではない、と…。
「…。私は、汚れているから」
　顔も服も靴も、心さえ。男は哀し気に、汗や土や血が混じってかさぶたのようにこびりついた己の手を見つめる。
　そんな男の感傷に気付かぬかのように、ブランカはむんずとその手を掴むと、
「別にかまいませんよ。さぁ、どうぞこちらへ」
　なかば引きずるようにしてカウンター席へ座らせた。
　唖然としているうちに男の前に暖かい紅茶が出される。断ろうと片手を上げかけた時、
「一口でもいいので飲んで下さい。暖まりますよ」
　そう云われて初めて、男は自分がずっと震えていたことに気付いた。寒かったわけではない。身体の内側で凍り付いた何かが、体温を奪っているのだ。
　おずおずと伸ばした指先でカップに触れる。決して高温ではないのに、そこから生まれた暖かさの波が、身体の真ん中に通っていた氷の柱を溶かしてゆくような気がした。
　観念して紅茶をすする。鼻に抜ける香りに、久しく封印していた感情が呼び起こされ、思いのほか激しく心を揺らした。 それは、郷愁だったかもしれない。
　いや、覚悟は決めていたはず。迷いなどとうに捨て去ったはずだ。
　男はぎゅっと目を瞑って、動揺する心を押さえ付けた。
「ここはケーキ屋ですから出せるものは限られていますが、何かご希望はありますか？」
　声に顔を上げると、カウンターの向こうでブランカが微笑んでいる。
　ふいに怒りが込み上げて、男はきつい言葉を投げ付けた。
「地獄へ行く私に似合いのケーキなどあるものか」
　八つ当たりだが、今は天使の微笑みなど見たくなかった。自分に救いなど、あってはならないのだから。
　しかし、ブランカは気にする様子もなく、手慣れた仕種で皿を出し、カットしたケーキを盛り付ける。
「…。では、これをどうぞ…」
　木製のカウンターテーブルに、皿がコトンと籠った音を立てた。
「これは…」
　男は息をのむ。
　白い皿の上に赤黒いソースが血溜りのように広がり、その中に真っ黒なケーキが一つ。
「これは『悪魔の食べ物(デビルス・フード)』と呼ばれるココア入りのバターケーキです。普通のチョコレートケーキよりずっと黒く焼き上がっているのは、重曹が入っているから。それでこの名前が付いたんでしょうね。如何ですか？」
　『悪魔』の名のつくケーキがあるとは知らなかった。
　濃いこげ茶色の生地は厳密には「真っ黒」とは云えない。しかし、この深く重い色に『悪魔』の名が付くのは分かる気がする。
　しかもそれが、赤いソースの海に浸っているのだ。
　何でもない盛り付けの演出が、男の記憶をフラッシュバックさせる。
　確かに、今の自分にこのケーキは似合いかも知れない。
　男は自虐的な気分で、フォークに手を伸ばし、ひとかけらのケーキを口に運んだ。

　ぱくん。・・・！

　フォークをくわえたまま固まってしまった男に
「…どうです？」
　ブランカが声をかける。
　そのどこか可笑しそうな声に、男は何とかケーキを飲み下して、
「・・・・・・・・・・・あまい」
　一言呟くと、ノンシュガーの紅茶を一気に流し込んだ。
　苦りきった表情に、ブランカはこらえ切れずに吹き出してしまう。
「すみません…、最初から甘いものが得意ではないようにお見受けしていたのですが、あまりに思いつめていらっしゃるので、ちょっと意地悪をしてしまいました」
　ひとしきり笑った後、
「お皿を貸していただけますか？」
　一旦皿を下げ、奥から二つの容器を出してきて、デコレーションに追加を始める。
　一つはホイップした生クリーム。ブランカはそれをスプーンで涙形にすくい取ると、ケーキの上にちょこんと乗せ、彩りに緑のピスタチオを飾った。次いで、もう一つの容器からディッシャーでヨーグルトアイスをかき出し、ケーキの横に丸く盛り付ける。
　ちょっと手を加えただけで、血みどろの地獄絵からメルヘンチックなお菓子の庭に様相を変えてしまったその皿を、ブランカは男の前に戻した。
　魔法のような手際に見入っていた男は、
「さぁ、どうぞ。これで食べやすくなったと思います」
　という言葉に、無言で身を引き疑いの眼差しを向ける。ブランカは、もう意地悪しませんってばと苦笑い。
「クリームには砂糖が入っていませんからケーキの甘味をまろやかにしてくれます。ヨーグルトアイスの冷たさは甘味を抑えますし、この赤いラズベリーソースとも相性が良いんです。もう一度、是非ソースと一緒に食べてみて下さい」
　耳触りの良いアルトで「ねっ」と云われると、むげに断れない気がしてくる。
　男はしぶしぶフォークを手に取り、今度は少し大きめにケーキをすくって、クリームとソースをからめた。一瞬躊躇った後、思いきって口に入れる。
「んむっ」
　ケーキは変わっていないので確かに甘い。けれど、ただ甘いだけではなく、クリームのまったりとした口当たりとラズベリーの酸味で、より深い味わいが生まれていた。先程は気付かなかったココアのほろ苦さも生きている。冷たいヨーグルトアイスは、口の中をさっぱりさせる効果もあるようだ。
「名前は『悪魔』と付けられていますが、これは昔から多くの人々に愛されて、大切に受け継がれているケーキなんです。名前や外見、その瞬間の状況からだけで、全てを推し量ることはできないでしょう？　アレンジ方法はそれこそ無限にあると云えますしね」
　まずは食べてみなくちゃ、とブランカは笑う。
　甘酸っぱいソースのせいか、ほろ苦いケーキのせいか、遠い昔に忘れ去ったはずの懐かしい思い出が走馬灯のように男の脳裏をかすめて行った。

　母が作った素朴なおやつ
　友達と買いに走った砂糖菓子
　初めてもらった手作りのクッキー
　祝いの席の大きなケーキ…
　戦いの最中分け合った、ひとかけらのチョコレート…

　男が黙々とフォークを動かすのを、ブランカはにこにこしながら見守っている。
　カチン。
　皿の上のケーキを綺麗に食べ終わると、男はフォークを置いた。
　空になった皿を片付けるブランカに、
「美味しいケーキに感謝する」
　と云って頭を下げる。
「こちらこそ食べて頂けて嬉しいです。コーヒーをお持ちしましょう」
　その時。

　ぱた…

　何かがカウンターテーブルに落ちた。

　ぱたぱたぱた…
　
　男の視界が滲んで、瞳からあふれた泪がテーブルに小さな水たまりを作る。
　泣いているのだと分ったけれど、止めることはできなかった。
　自らの封印を解いて蘇った記憶。自分が生きてきた道程の中の、憎しみや悲しみ以外の感情を『悪魔』のケーキは思い出させてくれた。
　優しい時間も、確かに在ったのだと。
　彼は気付いていた。
　ケーキを一口食べる度、優しい記憶が一つ蘇る度に、自分の身体に付いていた汚れが消えてゆく事に。
　今、彼の顔にも手にも身体にも、汚れの痕跡はない。
「何故泣くんですか？」
　ブランカが問うた。
「汚れは消えても、私のやったことは消せない。私は地獄へ行くべきではないのか…？　私は私を…許せるのか…？」
　男の呟きは己に向けられたもの。
「その姿は、あなた自身が自分の想いを整理した結果です。あなたのやったことがなかったことになった訳でも、私があなたを浄化した訳でもないんですよ。あなたがあなたであることを、誰も許したり裁いたりできないでしょう？」
　ブランカが、指先でそっと泪の雫に触れた。
　と、泪は小さな光の粒になって男の周りを浮遊し始める。
「私は…迷っていた…。ずっと…長い間、自分を見失って…」
　男は顔を上げた。もう泣いてはいない。
　良いことも悪いことも全て含めて、自分を取り戻したのだと気付いたから。
　後はその自分の全てをあるべき場所に返して清算する。そのためにここへ来たのだと。
「大丈夫。あなたの云った通り、行くべき場所は決まっているんです。魂の還る場所は、一つしかない。もう迷うこともないでしょう」
　男は立ち上がり、真直ぐブランカに向き直った。
　身体の輪郭が光の粒となって、足先や指先からその形を失って行く。
　男はその消え行く指先を伸ばし、最期に綺麗な敬礼をした。

　望む場所へ。
　それは天国なのか、地獄なのか。
　天国と地獄の違いを、ブランカは知らない…

Fin