recipe4「エンゼル・フード」

　入口ドアに取り付けられたクリスタルが、リンリンと陽気な音を立てた。と同時に、
「うひょー、こりゃいい」
　明るい声が店内に響く。
「天国の門をくぐる前にケーキを食えるたぁ、幸せなこった」
　大きな声で独り言を云いながら店に入ってきたのは、40代半ばと思われる男。短く刈り込んだ髪には白いものが混じるが、ご陽気に天国の門をくぐるにしてはまだ若いと云える年齢だ。
　太陽の下で長年働いていたらしく、どこもかしこもコーヒー色によく焼けて、白いTシャツとくたびれた作業ズボンが細身の身体に馴染んでいる。
「いらっしゃいませ」
　迎えるブランカに、「おぅ！　邪魔するぜ」と片手を上げてみせた。
「お席へどうぞ」
　促されて男は店内をくるりと見回す。そして、中央の大きな丸テーブルに目を溜めた。
「どこでもいいのかい？」
「もちろん。お好きな席をお選び下さい」
　じゃぁ遠慮なく、と男は大きなテーブルへ大股に近付き、白いイスを選んでどっかりと腰掛けた。
「ここはどこなんだ？　辺りはずーっとどこまでも雲ばっかりだが、まだ天国じゃないんだろ？」
　男の質問にブランカは、
「ここは『雲の国』ですよ」
　とだけ答える。
「へー、雲の国ねぇ。まんまだなー」
　納得したのかしていないのか、男はそれ以上追求せず、一面雲の海が広がる窓の外へちらりと目を向けた。
「まぁ、オレはこーゆーの好きだけどな。ケーキとか白とか、ふわふわしたものとか…、柄にもねぇって家族には云われるけどよ」
　わははと、明るく笑う。
「ご注文はお決まりですか？」
　ブランカに問われて、男は顎の辺りをコリコリと掻いた。
「あー、そうだなぁ、甘いものは何でも好きなんだが…。ケーキの名前なんぞは横文字ばっかで、なかなか覚えられねぇんだよな」
「では…、『白くて甘くてふわふわした』ケーキなどは如何でしょう？」
「おーそりゃいい！　それをくれ！」
　ぽんと手を叩いて頷く男に、ブランカはにっこり微笑んで「少々お待ちを…」と云った。
　程なくしてカウンターの向こうから、紅茶を煎れる為の湯が沸く音や、皿とカップが触れあう小さな音が聞こえてくる。それは、どこの家庭にもあるありふれた生活の音。
　男は大きなテーブルに肘を付き、耳たぶをくすぐるようなその音にふっと表情を和らげた。
「こうしてると、かみさんがそっから出てくるような気がしちまうな。あんたほどじゃないが、色白でさ…、まぁ、昔は可愛かったんだ。今じゃすっかり肝っ玉母ちゃんが板に付いちまったがな」
　それはオレのせいでもあるんだけどよ、と苦笑する。
「オレんとこは大家族なんだぜ。子供なんか8人いるんだ。10人家族っていやぁもう立派な大家族だろ？　こーんなでっかいテーブルで皆一斉に飯食うんだから、そりゃもう戦争みたいなもんさ。かみさんが逞しくなるのも、まぁしょうがねぇよなぁ」
　身ぶり手ぶりを交えながら、男は問わず語りを続ける。
「当然金なんていくらあっても足りやしねぇ。誕生日のケーキだって毎回買う訳にゃいかないってんで、よくかみさんが作ってたよ。そのうち子供もデカくなって、手伝ったりしてさ。それはそれで、また大騒ぎで。ありゃ楽しかったね」
　懐かし気に目を細める男は、ケーキが好きというより、それを囲む楽しい時間が好きだったのかも知れない。
　この大きなテーブルなら10人家族も楽に食事ができるだろう、などと考えてみる。
　そして気付くのだ。もう、誕生日を一緒に祝うことはないのだと。
　男の言葉が途切れた時、ブランカがケーキを運んできた。
「お待たせしました」
　カチャリと置かれた皿の上には、生地もクリームも真っ白なケーキが一切れ。そしてティーカップからは紅茶のよい香りが、湯気と一緒に立ち昇っていた。
「へぇ。ホントに真っ白だな。これは何て云うケーキなんだ？」
「『エンゼル・フード』ケーキです」
「はー『天使の食いもん』とはまた、直球ど真ん中なネーミング」
　どれどれと男はフォークを手に取り、器用な指先でくるりと一回転させると…
　むにっ
　何を思ったのか、いきなりケーキに押し付けた。
「!??」
　驚いて思わず半歩下がってしまったブランカにはおかまいなく
「ひょ〜！　ふっかふかだぁ。普通のケーキとはどう違うんだ？」
　子供のように感嘆の声をあげ、キラキラした目で見上げてくる。
　ブランカはコホンと咳払いを一つして気を取り直した。
「純白に仕上げる為に、材料に卵黄やバターは使わず、卵白・砂糖・小麦粉…白いものばかりを選んで作るんです。シフォンケーキと同じ型で焼きますが、シフォンよりもっと軽くて…」
　その耳に心地よいアルトの声を聞きながら、
　男は迷わずケーキの中心へフォークを刺し…、
　あ〜むっ
　と一口で半分を食べてしまう。
「…しっとり蕩けるような生地ができるんですよ」
「んーー！　むーーっ！」
　説明が終わる頃には、残りの半分も口の中に消えていた。そしてノンシュガーで紅茶を一気飲みする。
「…はふー。溶けちまうみたいにクリーミーなケーキだなー。甘くない生クリームと紅茶も合うねぇ。まわりについてんの何だっけ？　これの味が結構効いてるよな。ちょっとクセがあってオレは好きなんだが、下の子供が嫌いでサ」
　空になった皿の上には、生クリームの上に振りかけられていた白いフレーク状の物が残っている。
「それはココナッツのフレークです。基本の配合にはケーキにコクを出す食材が入っていませんから、味と香りのアクセントにデコレーションしてみました。生地にもココナッツミルクパウダーを少し入れて味の補強をしています」
「ほ〜、ナルホドねー。うん！旨いっ！お代り！」
　1ピースのケーキをふた口で食べてしまった男は、右手にフォーク左手に皿を持って、元気よく追加を要求した。
　乱暴だがどこか憎めない男の仕種に苦笑しつつ、ブランカは「かしこまりました」と云って皿を受け取る。
　ブランカが皿を下げ、綺麗に片付いた広いテーブル。
　自分の家族が賑やかにケーキを囲む幻が浮かんで、男は目を閉じてしまった。


　カウンターの奥から、皿の触れあう音が近付いてくる。
　その気配に、男はゆっくりと目を開けた。
　ブランカの白い手が男の前を横切って、ケーキの乗った皿をテーブルに置く。
「やっぱり…、夢じゃないんだな…」
　男のつぶやきに、
「えぇ…、夢ではありません」
　ブランカが応える。
「さぁ、お代りをお持ちしましたよ。どうぞお召し上がりください」
「ってコレがお代りかよ！」
　そこには直径18cmのシフォン型で焼いたケーキが、ド〜ンと丸ごと1台鎮座していた。
「そうです。小さかったですか？」
「いや、そーじゃなくて…」
　呆れ顔の男に、ブランカはにっこり笑顔でナイフを差し出す。
「これをお使いください。皿はこちらに用意してありますから」
「！」
　10枚の皿を見て、男はやっとブランカの意図に気が付いた。

(あっ！　これ大きい！　僕これ)
(ズルイ！　じゃんけんだろ！　じゃんけん！)
(もう！　ちゃんと均等に切ってよね！)
(よし、じゃぁものさし持って来い！　ものさし！)
(うわぁーん！　ローソクついてるのがいいよぅ)
(泣くな。ホラッこれやるから)

　子供達の声が聞こえるようだ。
　いつだってケーキカットは慎重かつ正確にやらねばならない。
　男は真剣な顔で、ケーキを10ピースに切り分けてゆく。
　ブランカは手伝うそぶりも見せず、ただ黙って見守っていた。
　スポンジはしっとりと柔らかく、クリームはほとんど抵抗も感じられない。
　柄に翼があしらわれた銀のナイフは、すぅっと白いケーキに吸い込まれてゆく。
　ケーキ屑ひとつこぼさないなんて、魔法でもかかっているのかもしれなかった。
「ココナッツ、なしにしてくれたんだな…」
「下のお子さんがお嫌いだと聞きましたので」
　カットしたケーキを皿に移しながら、男は小さく「サンキュ」と云った。

これは、無口だけど頼れる「大きい兄ちゃん」の分。

これは、皮肉屋で寂しがりの「ちい兄ちゃん」の分。

これは、不器用だけど頑張り屋の「大姉ちゃん」の分。

これは、明るくてひょうきんな「三男坊」の分。

これは、おませでしっかり者の「小姉ちゃん」の分。

これとこれは、やんちゃで悪戯ばっかりしてる「双児」の分。

そしてこれは、
　言葉は遅いけれど天使の笑顔で家族に勇気をくれる「末っ子」の分。

　それぞれの席に皿を置き、残った2ピースは自分とその隣の席に並べた。
　ふっくらとした妻の白い顔が浮かぶ。
　怒っていることも多かったが、コロコロとよく笑う明るい女性だった。
　結婚当初、大家族に憧れていた男が多くの子供を望んだ時、彼女は反対しなかった。
　憧れが怒濤の毎日という現実になって襲ってきた時も、
　彼女は怖れず果敢に闘ってくれた。
　初めから現実の大変さを、男よりはずっと真剣に考え予測していた事を、
　随分後に知った。
　彼女を選んで良かったと、彼女に選ばれて良かったと、男は思う。

(何でこれ大きいんだよー、ズルイズルイ！)
(ばか。こりゃ父ちゃんと母ちゃんの分だっ)
(何だー、そっか〜。そんならいいや。へへっ)

　ケンカなんてしょっちゅう。でも、思い出すのはあれもこれも笑顔ばかり。笑顔が絶えた日なんてきっと1日だってなかった。
　男は泣き笑いのような顔になる。
「みんな…」
　続く言葉が見つからなくて、涙が出そうで。ケーキを頬張った。
　純白の『エンゼル・フード』は、口に入れた瞬間に溶けてなくなってしまう。
　ひんやりしたクリームと滑らかなスポンジの、ほのかな甘味が舌に残った。
　それは、淡いけれど心に残る味だ。
「やっぱ、みんなで食うと旨いな」
　冗談めかして云うけれど、目が潤んでいるのは隠せない。
　まだまだ一緒にいたかった。それは隠しようもない本心。
　共に過ごした日々に男が込めた想いは、彼らの中に残っているだろうか。
「オレが残せたものなんて、ホントちょびっとだけどな」
　照れたように鼻をすする男に、
「本当に残るものは、少しでいいんですよ」
　その代わり、ずっと残るんです。
　ブランカの言葉が、やさしく染み込んでゆく。
「そう…だといいけどな」
　そんなに上手に生きて来た訳じゃない。
　みんなを幸せにできたかどうかも分からない。
　ただ、共に過ごした年月、色々差し引いても自分は幸せだったと、そう思える。
　顔を上げた男の身体は、光の粒となってその輪郭を失いはじめていた。
「そろそろか…。ケーキ、旨かったよ」
　男はブランカに笑いかけたあと、家族の為のケーキが並ぶテーブルを見渡し、ひょいと右手を上げる。
「ワリ。先いくわ。ありがとな！」
　瞬間、弾けるように光の粒は拡散した。しんみりするのは似合わないんだと、男が笑ったようだった。


　男が生きた証は、地上の命に刻まれている。
　それは目には見えないけれど、白くてふわふわしていて、意外に甘いかもしれない。
　淡くほのかな甘味でも、永く心に残ることをブランカは知っている。

Fin