recipe3「ノンエッグ・パンケーキ」

　空のケーキ屋さんに、連れ立ってやって来るお客は少ない。
　しかもそれが手をつないだ二人連れ、となると更に珍しかった。そういう客は『ワケあり』が多い。そう、例えばこんな風に…。

　ドアに取り付けられたクリスタル・スティックの軽やかな音色と、二人の声が重なる。
「あのー…」
「迷子ですぅ！」
　よく陽に焼けた元気そうな５才くらいの男の子が、やつれた顔に重そうな眼鏡をかけた20代後半の青年の手を引っ張るように入ってきた。
　二人連れなだけでも珍しい上に開口一番「迷子」だと云う。ますます変わったお客だった。
「いらっしゃいませ。迷子…、なんですか？」
　とまどうブランカに
「そうだよ」
　と、事も無げに答えたのは男の子の方で。落ち着かない風にきょろきょろと店内を見回す青年とは違い、ぱたぱたと足取りも軽くテーブルまで駆けてくると、さっさと椅子に腰掛けてしまった。
「のど乾いたから取り敢えず飲み物と、疲れてるから何か甘いもの頂戴」
「はぁ…。では、ココアなどいかがでしょう」
「ココア！　うん、それがいい。それにして」
　嬉しそうに小さな手のひらでテーブルを叩く。
「でも、ミルクは入れないでね」
　物おじしない態度や物云いは大人びた感もあるが、仕種には屈託がなくて子供らしい愛嬌があった。
　もっとも、相手が子供だろうが大人だろうがブランカの態度は変わらない。落ち着いたアルトの声でお客を迎えるだけだ。
「承知しました。そちらのお客さまもお掛け下さい。コーヒーになさいますか？」
「あ…あぁ、そうし…」
　座りながら答える青年の言葉を、
「だめだよ！」
　 男の子の声が遮った。
「一緒のでなきゃダメ！」
　口をとがらして主張する。青年は一瞬驚いたように男の子を見やったが、「ダメダメ」とくり返す様子に小さくため息をつくと、ブランカに軽く頷いて見せた。
　何か理由があるのだろう。しかし、青年自身はまだその『理由』に気付いていない。
「わかりました。少々お待ち下さい」
　ブランカが下がると、青年は男の子に向かってぼそぼそ文句を云った。
「飲み物くらい好きなものを飲ませろよ」
「だって好きだもん。ココア」
「お前はそうかもしれないけど、俺は…」
「好きだもん」
　拗ねたようにうつむき加減で上目遣いに云われると、飲み物くらいで文句を云うのが大人気なく思われて、青年は口籠る。
「…俺はもう、子供じゃないんだから…。まぁ、別にココアでもいいけど…」
　実際、甘いものは嫌いではなかった。学生の頃は、同級生にからかわれるのが嫌で、人前ではあまり食べなかったが、家では家族に買ってきてもらったり、コンビニで買ったりして結構食べていた。
　そういえば、一番最近口にしたのもコンビニのショートケーキだったように思う。
（あれ？　何だ？　この感じ？）
　不思議な違和感。でも、それが何なのか分からない。青年は居心地の悪さに身じろぎして、正面に座っている男の子に視線を向けた。
　男の子は手持ち無沙汰な様子で、頬杖をついて窓の外を見ている。その背中に、翼があった。
「え？」
　驚いて思わず声を上げてしまう。
「何？」
　いぶかる男の子のあどけない顔と白い翼。よくよく見てみると、翼は椅子にあしらってある飾りだと分かった。
「…いや、何でも…ない」
　自分の椅子にはついていないが、ここには色んな椅子があるのだろう。男の子に翼があるように見えたのは、錯覚だったのだ。青年はぎこちなく座り直すと、ため息をついた。
「ため息、よくつくね」
　少しだけ哀し気な響きを含んだ言葉にはっとする。
「…？」
　けれど、男の子の表情が曇って見えたのはほんの一瞬。ブランカが白磁のマグに入った甘い香りのココアを運んでくると、小さな両手でそれを受け取り、すぐにこぼれんばかりの笑顔を見せた。
「ケーキは何になさいますか？」
　ブランカの言葉に、
「何がいい？」
　意外にも男の子の方が意見を求めてきた。青年は意表を突かれて戸惑いつつも、
「じゃ、じゃあホットケーキ…、いや、こういう店ではパンケーキ、になるのかな」
　子供が好きそうなものを注文する。何故か男の子も同じものを食べる気がしたのだ。
「かしこまりました」
「あ、ちょっと待って」
　下がりかけるブランカを呼び止めた男の子は、神妙な顔で何事かを耳打ちする。
「できる？」
　見上げる不安げな顔に、ブランカは天使の微笑みで答えた。
「もちろんです」
　男の子は安心した様子で、自分のココアに専念し始める。
「何を頼んだんだ？」
　青年が聞くと、口元にココアの茶色いヒゲをくっ付けた男の子は、甘い息でへへへと笑った。
「はちみつとメープルシロップたくさんつけてって、云ったんだ。それよりこのココア、冷めないうちに飲んでみてよ。すっごく美味しいからサ」
　云われて青年もココアを口に運ぶ。
　甘く濃厚なカカオの香りがしていたが、一口含むと、思った程甘く感じない。いや、甘さは充分なのだが、ほんのり利いているシナモンと、カカオのほろ苦さのバランスが良いのだろう。温度も熱すぎずちょうど飲み頃だった。のどを通って身体の中へ流れてゆく温もりが、じんわりと身体を暖める。
　青年はその時初めて、自分の身体が冷えていたことに気が付いた。
　窓の外は一面の蒼空で、白い雲が生き物のように形を変えながら流れている。この窓からだと太陽は見えないが、天気が良いことは一目瞭然だ。寒いはずはなかった。男の子も薄いシャツに短パン姿だし、自分自身もシャツ１枚とコットンパンツ姿で、寒さを感じてなどいない。それなのに、身体が異様に冷えている。
（な…んだ…？）
　得体の知れない不安感に身震いして、無意識のうちに暖かいマグを包む両手に力を込めていた青年は、
「大丈夫だよ」
　ふいに掛けられた言葉が自分に向けられたものだと、一瞬分からなかった。
「怖くないよ。ボクが守ってあげるから」
　続く言葉の意味も掴めなくて、
「何だって…？」
　聞き返そうとした時、ブランカがパンケーキを運んできた。
「お待たせしました」
　ことん、とテーブルに置かれた大きめの皿には、ホットケーキよりひと回り小さく厚みも薄いパンケーキが３枚。扇状に並べられ、上にはローストして荒く刻んだ胡桃と数種のベリーが散らしてある。皿の横に小さなポット型容器が二つ。それぞれに、はちみつとメープルシロップがたっぷりと入っていた。
　芳ばしいパンケーキの香りと、蜜の香りが鼻孔をくすぐる。
「い〜匂い！　幸せな香りだねー」
　笑顔で鼻をぴくぴくさせている少年の感想は、そのまま青年の感想でもあった。
（幸せな…香り…？）
　甘い香りの既視感。記憶も定かでない遠い日の想い出と、その香りがだぶる。
（…この会話…、どこかで…？）
　再び感じる違和感に、青年は困惑する。
「美味しそー�｡　ねぇねぇ、早く食べてみてよ。大丈夫。これは卵入ってないから」
「え？　卵？」
　驚く青年に、男の子はブランカを仰ぎ見ると、ね？と同意を求めて得意げな笑顔を見せた。
「そうです。いつも食べていた味にして欲しいとのご注文でしたので、卵や乳製品を一切使わない当時のレシピを参考にさせていただきました。どうぞ、お召し上がりください」
　ブランカに促されて、パンケーキにナイフを入れる。
　パンケーキからはまだ湯気が立ち昇っていて、琥珀色のシロップがキラキラと輝きながら滴り落ちていく。小さな三角形に切り取った一切れを口に入れると、芳ばしい生地のもっちりした食感とシロップの甘味が広がった。
　懐かしい…。
　心の奥底に沈んでいた記憶が、ゆっくりと浮上するような感覚。青年は記憶の細い糸を手繰ってゆく。
「卵やバターといったものの代わりに、豆乳や植物油を使っても色んなお菓子ができるんですよ」
（ほうら、小麦の味がちゃんとするでしょう？　栄養だっていっぱいあるのよー。たくさん食べてね）
　ブランカの言葉が、懐かしい誰かの声と重なる。
「ね、こっちのは何？　色がちょっと違うね？」
　男の子はテーブルに身を乗り出して、皿の中を指差した。
「こちらは全粒粉を使っています。胚芽や外皮を含んだ小麦粉で、栄養価が高く味わいも深いです。それからこちらは、黒糖を使って味に変化とコクを出してみました。同じ味ばかりでは、飽きてしまいますからね」
「ふーん。ねぇ、ボクにも一口！　あ、胡桃も乗せて」
　男の子があーんと口をあけてねだる。小さな乳歯が綺麗に並んだ可愛らしい口に、はちみつと胡桃をたっぷりのせた一切れを運びながら、青年はパンケーキの皿が一つしかないことに気付いた。
「お前のは？」
「んー？　いーの。だっていっつも半分コだもん」
　口をまぐまぐさせながら、当然の事のように云う。

（半分コだよ）

　その言葉が頭の中でリフレインした。
　…何？　ダレ？　誰の声だ？

（ミルク入れないでね）
（卵入ってない？）

　そして彼は思い出す。
「あ…、俺…っ」
　遠い日に食べたおやつの味と…

（ボクが守ってあげるから）
（幸せな香りだね）

　いつも一緒にいた、守ってくれると云った、彼の…

　がたん、と椅子が鳴って、突然、青年は席を立った。
「…お前、誰？　誰だ…？」
　乱暴に手を離したフォークがテーブルに転がる。
　…ダレ？　マサカ…　ソンナコトガ…？
「思い出した？」
　男の子の声は落ち着いていた。逆に青年は、足元が揺らぐような不安定感に思考もままならない。
　ココハ…ドコダ？　オレハ　ココデ　ナニヲ？
　身体を真っ直ぐ支えきれなくなって、テーブルに両手をついた青年に、男の子がそっと手を伸ばした。
「大丈夫。怖くないから。さぁ、もうお帰り…『ようちゃん』」
「…っ！」
　小さな手が優しく頭を撫でるその心地良さを、青年は確かに知っていた。
「にぃ…ちゃ…？」
　ダメだ…、立っていられない…
　青年の意識は過去へ遡る。まだ、本当に幼かったあの頃へ…


「おかーさん！　おかーさん！　大変っ、ようちゃんがジンマシンになっちゃった！」
「ようちゃんは卵アレルギーなのよ！　何を食べさせたの？」
「ごめんなさいごめんなさい、ボクのお誕生日ケーキなの。どうしても苺のケーキが食べたかったの。ようちゃんボクとおんなじのがいいって、いつも云うから…」
「…そうだったの。ようちゃん、牛乳や生クリームもダメだものね…」
「ごめんなさい。ごめんなさい…、ボクもうケーキ欲しいなんて云わないから、ようちゃんが卵食べないように守るから…。ようちゃん、死んじゃわないよね？」
「もう大丈夫。お薬で直ってきたわ」
「ごめんね、ごめんね…」
「お兄ちゃんが泣かなくてもいいのよ。ほら、ようちゃんが笑ってるわよ。お兄ちゃん泣き虫だねって。これからはお母さんがお菓子作ってあげる。卵やバターを使わなくたってできるお菓子はあるもの」
「そしたらようちゃんと半分コできる？」
「ええ。お兄ちゃんはホントにようちゃんが好きなのね」
「うん！　大好き！」

　大好き！

　どうして忘れてしまったのだろう…？
　どうして忘れたりできたのだろう？
　あんなに愛されていた時間が、確かに在ったのに。
　歳を重ね、兄の歳を追い越し、
　アレルギー反応が出なくなるにつれ、
　記憶もまた心の奥底へ封印されてしまった。

　別に死のうと思ったワケじゃない。けれど…
　死んでも構わないくらい、何もかもがどうでもよかった。
　『迷子』だったのは、俺の方だ…。
　ごめん、兄ちゃん…。
　…ありがとう。


　青年の姿が消えた後も、男の子はしばらくその席を見つめていた。
「…帰れたかな？」
　ぽつりと呟く。
「えぇ、きっと。彼にはここは居心地が悪かったようですし」
　ブランカが苦笑すると
「ココアは美味しかったよ。ボクもようちゃんも大好きなんだ」　
　そう云って慰めてくれた。
　てことは、パンケーキはイマイチだったと…。それはそれで構わなかった。確かに、卵やバターをふんだんに使った方が美味しいお菓子ができるけれど、彼らが欲しかったのはそういうものではなかったのだから。
「ありがとうございます。気に入っていただけて嬉しいです」
「ボクも嬉しい。約束、守ることができたもん」
　にっこり笑う男の子の輪郭が、光の粒となってぼやけ始める。
「もう、行かなくちゃ。大丈夫だよね？」
　確認するようにブランカを見上げた。
「あなたはよくがんばりました。彼はちゃんと分かっていますよ。また道に迷うことがあっても、もう忘れたりはしないでしょう」
　光の集合体となった小さな身体は、ブランカの周りを旋回してから天へ還って行く。
　光があふれる蒼い空を、ブランカはいつまでも見送った。

　ワスレナイデ…
　キミヲ　イツマデモ　オモッテイルコト…
　キミヲ　タイセツニ　オモウヒトガ　キットイルコト…

　ワスレナイデ…
　　ズットズット　ダイスキ

Fin