recipe2「シュー」


 ドアに取り付けられたクリスタルのスティックが涼やかに鳴って、1人の青年が入って来た。
 日焼けした肌に合わせて染めた茶髪が良く似合う。決して二枚目とはいえないが、髪にも服装にもきちんと気を使っていて、なかなか印象の好い青年だった。片手にフルフェイスのヘルメットを持っている所を見ると、バイクにでも乗っていたのだろう。
 彼はちょっと場違いなところへ来てしまったように、落ち着かない視線で店内を見回してから、キッチンに立つブランカに目を止めた。
「いらっしゃいませ」
 いつものように落ち着いたアルトの声で迎えると
「あ、いや…、え〜と、…ども」
 バツが悪そうに曖昧な笑顔を浮かべ、手近にあった木製の丸椅子を引いて腰を下ろす。
「何にしましょう?」
 ブランカが聞くと、テーブルにヘルメットを置いて顔を上げた。
「…、シューを。ここに、特別なシューがあるって話し聞いたんだけど」
「特別なシュー?」
 ブランカが問い返すと
「や、俺もどんなのかは知らないんだ。噂を聞いたってだけで…」
 顎の辺りをカリカリ掻きながら苦笑する。
「どんな噂ですか?」
「…雲を、雲を食べてるようなシューがある、って。そんなの嘘だろって思うんだけどサ。俺の彼女、すげーシュー好きで、新しい店や新作が出ると必ず買いに行くんだ。でも、『雲みたいな』シューの話しは今まで聞いたことないからサ。きっと食べたことないだろうと思って」
 彼女の事を話す時、彼の瞳は優しく揺れた。
「特別かどうかはわかりませんが、食べて確かめてみてはいかがですか?」
 白い皿とカップを用意しながらブランカが云う。
「あ〜、でも俺、あんま甘いもの得意じゃないんだよね」
「そうおっしゃらずに。まずはこちらを」
 出て来たのは小振りのシュークリーム。レースペーパーを敷いただけの小皿に、ちょこんとひとつだけ乗せられている。デコレーションも粉糖を振っただけのシンプルなものだった。
「へぇ、可愛いな」
 彼は人懐っこい笑顔で、シューをつまみ、あむっと一口で食べてしまった。
「ん!うまっ! シューが柔らかくて、クリームがむちゃ軽! 冷やっこいのが、口の中でこうプワァっと…、マジ雲みてぇ」
 身ぶり手ぶりで味を表現しようとわたわたしている姿に、ブランカが微笑む。
「今のは一般的なシュークリームです。カスタードクリームはたくさん入っているとどうしても重く感じてしまうので、ホイップした生クリームを加えて軽く仕上げているんですよ。でも、どこのお店もシューの柔らかさやクリームの配合を工夫して、独自のシュークリームにしていますからね、これが『特別』とは云えないかもしれません」
 しつこい甘さを残すことなく口の中から消えてしまったシュークリームに、すっかり心を奪われた彼は、ブランカが新たな皿と香しいコーヒーを運んで来るまで、惚けたまま白い皿を見つめていたのだった。
 次に出て来たのは、プチシュー。翼をあしらった銀のピックが添えられて、コロンコロンと5つほどが同じ小皿に乗っている。
「小っさいなぁー」
 がっかりしたのか感心したのか分からない口ぶりで、彼が皿に顔を近付けると、芳ばしく焼けたシュー皮と甘いキャラメルの香りがした。
「これはシュケットと云うプチシューです。小さく成形する上に、アーモンドダイスを散らして焼き上げるので、先ほどのシューよりカリっとした仕上がりになっていますよ。暖かいコーヒーと一緒にどうぞ」
「かかってるのは、キャラメル?」
「そうです」
 銀のピックでつついてみると、簡単に転がってしまう。
「れ?」 
 いくらプチシューといっても、あまりに軽い。戸惑う彼に、ブランカは「まぁ、食べてみて」と笑った。
 さく、と。乾いた感触で、銀のピックはシューを貫いた。とても軽い。
 一抹の不安を胸に、彼はシュケットを口に放り込んだ。
「んむ…!」
 予想通り、中味はカラだった…けれど。彼はニヤリとブランカを見上げ、コーヒーに手を伸ばす。
 コーヒーには砂糖もミルクも入っておらず、切れの良い苦味が口に広がった後に、深く煎られた豆の芳香が鼻に抜けてゆく。
 彼は無言で、ほいほいとシュケットを口に運び、あっという間に全て平らげてしまった。コーヒーも飲み干してしまう。
 ことん…、コーヒーカップをテーブルに戻して、彼は小さく息をついた。
「旨かった…。中味入ってないのに…、や、入ってないからこの食感と味になるのか…。ぎゅっと甘いんだけど、小さいしカリカリ・サクサク食べれちゃうから、しつこくないんだよな。甘いもの苦手でもイケル。コーヒーとも相性バッチリだし」
「お気に召しましたか?」
 空になった食器を下げながら、ブランカが聞くと、
「む〜、悩むなぁ…。俺にはどっちも旨くて『特別』な気がするぞ」
 頭を抱えて大袈裟に悩むポーズをとってみせた。
「結局のところ『特別』かどうかは、食べる方によって違うのでしょう。シューはバリエーションの豊富な菓子ですから」
「う〜ん、奥が深い。俺だって、シューってのが『キャベツ』だって事くらいは知ってたんだぜ。彼女の受け売りだけどサ。でも、キャベツよりは雲とか空気とかの方が、ここのシューのイメージにはあってるかもな」
「フランス人は、膨らんだシューの形をキャベツみたいだと思ったのでしょうね。面白い名前のシューもあるんですよ」
「どんな?」
「ペ・ド・ノンヌと云うんです」
「??」
 おそらくフランス語だろう。だが、意味はさっぱりだ。彼は眉をひそめて情けない顔をした。
「意味は?」
「『尼さんのおなら』です」
「…へっ?」
 ブランカの口からそんな言葉が出るとは思いもしなかった彼は、自分が発したベタな駄洒落がツボにはまってしまい、 腹を抱えて大いに笑う。小さな店内に若者の元気な笑い声が響いた。
 足をバタバタと打鳴らして笑い続ける彼に、
「食べてみますか?」
 ブランカがオレンジジュースと新たな皿を並べながら聞く。彼は涙を拭って、湯気の立つ皿に目をやった。
「おーっ! これが『尼さんの屁』かぁ!」
 『おなら』ですってば、と云うブランカの言葉に「一緒じゃんか」とツッコミを入れつつ、立ち昇る湯気にあらぬ妄想をしてしまったのか、再び笑いの発作を発症している。
「ペ・ド・ノンヌは揚げシューなんです。中味はやはり入っていませんが、この生地にはオレンジの皮を混ぜてあるので、オレンジの良い香りがしますよ。他にもドライフルーツを加えたりして作ることが多いですね」
 揚げたてのシューは、振りかけられた粉糖が溶けて、キラキラと輝いていた。
「はふっ。うまっ!」
 はふほふと、子供のようにシューを平らげる彼の横で、ブランカは何やら準備を始める。
 アルコールランプの上に小さな銅鍋をセットして、何かを温めているようだ。甘い香りが立ちこめている。大きめの皿にはプチシューがたくさん並んでいて、別の皿には円錐形の紙が立ててあった。
「何すんの?」
「『特別』なのは菓子ではなくて、シチュエーションなのかもしれません。ご自分で作ってみませんか?」
 プチシューにはちゃんとクリームが入っていた。銅鍋には砂糖と水を煮詰めたカラメルが入っていて、これを糊代わりに円錐形の紙を芯にして、シューをツリーの形に組み立てていくのだ。
 ブランカは一段目を作ると、後は彼に任せてキッチンに戻ってしまった。
 彼は真剣な目をして、小さなシューをひとつひとつ用心深く積み上げてゆく。
 無心で手を動かすうちに、今まで生きて来た20数年間の出来事が、次から次へと走馬灯のように脳裏に浮かんで来る。彼は知らぬ間に、シューに想い出を重ねていた。家族や友達、恋人との、ひとつひとつ小さいけれどちゃんと中味のつまった大切な想い出。ずっと積み上げて来た、彼の歴史。でもまだ少ない。もっとたくさんあるはずだった。もっと大きくするはずなのだ。
「何…、何だ?」
 彼は急に違和感を感じて身じろぎする。
「素敵なクロカンブッシュですね。でもまだ未完成でしょう?」
 気がつくと、いつの間にかブランカが隣に立っていた。
「これって…。俺…?」
 何だか居心地が悪い。足元が不安定な気がするのだ。立ち上がりかけて、身体が大きく傾いでしまう。
 その時。遠くで、誰かが彼を呼んだ。
「おや、貴方を呼んでいますね。行きますか?」
 行く? どこへ? でも、俺まだこれ食べてない。
 彼はそう思ったのだが、身体はもう云うことを聞いてくれなかった。
 浮遊感は増すばかりで、立っているのか寝ているのか分からなくなる。周りの景色も急速に遠のいて意識が白濁してゆく。
 そして唐突に、彼は消えた。
 テーブルには、主を無くしたヘルメットと、彼が作ったクロカンブッシュが残っている。
 ブランカは銅鍋に残ったカラメルを銀の匙で掬うと、そのクロカンブッシュに飴掛けを始めた。空中に匙でくるくると円を描き、絹糸のように細い飴を降らせるのだ。液体だったカラメルは瞬時に琥珀色の飴糸になり、重なって琥珀の雲になった。
 それは陽の光を受けて、甘く柔らかく輝いている。
「大丈夫。そのうち食べられますよ」
 ブランカの声は、彼に届いただろうか。


 彼が目を醒ましたのは病室のベッドの上だった。
 体中あちこち包帯でぐるぐる巻にされていて身動きもできない。それでも、覗き込んでいる泣き顔が彼女であることは、すぐにわかった。
「…俺、生きてんだ…」
 おぼろげながら、バイクで転倒した時の記憶が蘇る。
「そうよっ!このあほっドジッおたんこなすっ!今度転んだらコロスからねッ!」
 愛しい彼女は、ふっくらとした可愛い顔を涙でぐしゃぐしゃにして彼を責めた。
 殴られるより、泣かれる方がイタイ。彼は、瞬時に何通りもの「ごめんな」を頭の中でシミュレーションしたのだが。
「クロカンブッシュ…」
 口から溢れたのはシューの名前。
「え? 何?」
 話しが見えない彼女。
「…クロカンブッシュにしよう。俺たちのウェディングケーキ」
「…な、何云ってんのよ。こんな時にこんなとこで」
 云い返す彼女の顔は、見る間に真っ赤に染まってゆく。
「俺たち…、まだまだたくさんシューを重ねなきゃ、な。一緒にサ…」
 痛み止めの薬の効果で再び微睡み始めた彼の瞳は、 眠りの淵へ沈む直前に、何度も頷く彼女の姿をはっきりと映していた。

Fin

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「シュー」2002年12月発表作品