recipe10「クリスマスプディング」

　歩きながら考え事をするのが、彼女の癖だ。
　シンプルだが流行をきちんと取り入れたジャケットスーツをきりりと着こなし、磨かれたパンプスが都会の固い地面をリズミカルに叩く。

　カツ　カツ　カツ！

　その小気味良い音は、彼女の思考のめまぐるしさを表すかのようだ。

何とか時間までに戻れそうね。着いたら書類確認して電話しなくちゃ。
あと昨日のあれを訂正して、今日中に引き継ぎしておかないと。
もう週末になっちゃう。あぁもう、時間がないわ。
やっといてくれるといいんだけど、きっとできてないだろうな。
あ、あのチケット取れたって連絡しなきゃ。時間何時だっけ。
休みの日程も聞いとかないと。メールの返事遅いんだから。
まったく誰も彼も！　どうして分かんないのかしらね。嫌んなっちゃう。

　髪も爪も綺麗に整えられ颯爽と歩く彼女は、傍目には立派なキャリアウーマンに見えるだろう。実際、彼女は仕事も遊びもきっちり卒なくこなすタイプであったけれど。
　頭の中は終わりのない思考に支配され、周りの景色も見えてはいるが、いちいち認識はしていない。

　カツ　カツ　カツ…　！

「？」
　その音がふいに途切れ、彼女は我に返った。
「あらやだ。ここ、どこかしら」
　確か駅からオフィスへ、いつもの道を歩いていたはずなのに。
　目の前は一面の空。
　それも都会ではついぞお目にかからない、底抜けの蒼空だ。
　絵に描いたような白い雲が形を変えながら流れてゆく以外、高層ビルどころか視線を遮るものすら何もない。
　そして足下に目をやると、そこにも雲。
　尋常でない事態に、不安になった彼女は再び歩き出した。とにかくここにいてはいけない気がしたのだ。
　雲の大地は柔らかく、パンプスが発する音を吸い込んでしまう。それでいて沈みこむこともない。不思議な感触に不安は増すばかりで、彼女は歩を早める。
　夢中で歩いて歩いて。気が付くと一軒の店の前に辿り着いていた。
「ケーキ屋さん…？」
　突然現れた小さな店に思考は混乱する。けれど、漂う甘い香りは、雲の大地ほどの恐怖を彼女に抱かせなかった。

　カランコロン…

　ドアを押し開けると、降ってきたのはひどく懐かしい音。
　思わず見上げたドアベルはどう見てもクリスタルなのに、その音は昔通い詰めた喫茶店にあったブリキのドアベルととても良く似ていた。
「いらっしゃいませ」
　柔らかなアルトの声に迎えられ、店内へ足を踏み入れると。
　こつ…、木の床に丸い音がこぼれる。
　使い込まれて所々飴色になった木の床やアイボリーの塗り壁。テーブルも椅子も程よくくたびれていて、角がない。
　笑顔で彼女を迎えたのは、この店のパティシエ、ブランカ。桜色のエプロンを身につけ、長い髪をお揃いのリボンで束ねている。
「どうぞ奥へ」
　優しいその声に、彼女は困ったように眉を寄せた。
「わたし、道に迷ったようで…。少し休憩させてもらっていいかしら？」
「えぇ、構いませんよ」
　彼女はホッとした様子で店内を見渡すと、ドア近くにある小窓下の席へ腰掛けた。
「何かお飲物でも？」
　ブランカの問いに、
「ここケーキ屋さんなのよね？　それなら珈琲と、何か甘いものもいただこうかしら。どんなケーキがありますか？」
　気を使ってケーキも、と云ったのだが。
「何でも。ご希望のケーキを用意させていただきますよ」
　何でもという答えに、生来皮肉屋な彼女は、少しばかり意地悪な気持ちになった。
「まぁ、大きく出たわね。よっぽど品揃えに自信があるのかしら」
　そして、ふと思いついたケーキの名を口にする。
「そうね、季節外れだけれど、クリスマスプディングをくださいな」
　どう？　とばかりに頬杖をつき、足を組んでみせる。何でもできるなんて軽々しく云うもんじゃないのよと、そんな気持ちで。
　だから、「かしこまりました。少々お待ち下さい」と云って特に問いただしもせずキッチンへ戻ってゆくブランカには少なからず驚いたのだ。
「ちょっ、ちょっと待って。クリスマスプディングって云ったら、あれでしょ、何時間も蒸して仕上げるっていう、イギリスの伝統菓子の」
　思わず腰を浮かせ、引き止めてしまう。
「そうです、よくご存知ですね。蒸し上がるのにもう少しだけかかりますから、先に珈琲をお持ちしましょう」
　ブランカはそう云って、キッチンへ消えた。
　残された彼女は、どすん、と椅子に座り直し、大きなため息をつく。
「なんなのもう、ここって…」
　一人ごちながら窓の外へ目をやると、やはりそこには空しか見えなかった。
　開け放たれた窓からは、そよそよと穏やかな風が入ってくるだけだが、上空ではもっと強い風が吹いているらしく、雲は面白いように形を変え、次から次へと流れて行く。
　筋書きのない無声映画を見るようにそれを眺め続け、彼女は再び終わりのない思考に落ちて行った。

何でこんなわけの分からない場所に来てしまったんだろう。
ケーキ屋？　確かに甘いものは嫌いじゃないけれど。
クリスマスプディングなんて、どうして出てきたのか…。
あぁ、昔、友人とのクリスマスパーティーで１回だけ買った事があったっけ。
でも、２時間も蒸して食べろって書いてあって。皆、ブーブー云いながら待ったな。それだけ時間をかけてやっとありついた味が、また激烈に甘いわしつこいわで。
文句云いつつ妙に盛り上がって。賑やかで面白かった。
自分の事だけやってれば良かったあの頃は、なんて気楽だったのかしら。
…やだ、わたしも歳取ったわねぇ。こんな事懐かしく思い出すなんて。
そう云えば、この店、昔皆でよくたむろしていた店に似てるんだ。
それでこんな事思い出したのかも。

　最近、上手くいかない事が多過ぎる。仕事でもプライベートでも、彼女がいちいち指示しなければ、物事がちっとも進まないのだ。頼られるのは嫌じゃない。頼りにされれば誇らしいし、応えたい気持ちだってある。けれども。
　いい加減、疲れてしまって。楽しいと感じることも少なくなった。

　ふわり、と珈琲の好い香りが鼻をくすぐって、彼女を悶々とした物思いから解放する。
「どうぞ」
　テーブルにカップを置いたブランカに、彼女は弱々しい微笑みを見せた。
「ありがとう。ねぇ、わたしって、もしかして死んじゃったの？」
「何故、そう思うんです？」
　ブランカは否定も肯定もせず、逆に問い返す。
「だって、ここ普通じゃないわ。こんなの天国以外あり得ない」
　彼女は少しばかり捨鉢な口調で答えた。
「それならそれで、別にいいのよ。やりたいこともあったような気がするけれど、死んじゃったならしょうがないものね」
　自分でも不思議なほど、あっさりと諦めがついていた。もうややこしい全てのことを終わりにしたい、と。だから、
「ここは雲の国です」
　ブランカの言葉に、思わず笑い出してしまう。
「あらそうなの？　その二つって違うのかしら？　あなた、色んな意味でわたしの期待を裏切るわねぇ」
「私は天国を知りませんので…」
「あはは、ごもっとも。変なこと聞いて悪かったわ」
「…何を、そんなに急いでいるのですか？」
「急いでる？　ん〜、確かにせっかちな方だって自覚はあるかな。わたし、珈琲はブラックで飲めるんだけど、お店では大抵ミルクを入れるのよ。何故だか分かる？」
　ブランカの答えは待たず、
「少しぬるくなって早く飲めるでしょ？　実はちょっと猫舌なのよね」
　彼女はミルクポットからミルクを注いで、珈琲をくるりとかき混ぜた。
　一口含んだ珈琲はほろ苦く、そして柔らかなミルクの味がする。
「…あ、美味しい…！」
　思わずこぼれた一言に、ブランカがさらりと頭を下げた。
「ありがとうございます。ミルクに合うよう、酸味の少ないブレンドをゆっくり抽出して、コクと苦みを出してみました」
　驚いた様子の彼女にニコリと笑いかけ、
「そろそろプディングが蒸し上がる頃ですね」
　そう云ってキッチンへ戻ってゆく。
『…何を、そんなに急いでいるのですか？』
　ブランカの言葉が耳に残る。

　色んな事を、急ぎ過ぎているのではありませんか？
　生きることにも、逝くことにさえ。

　彼女は珈琲をいつもよりゆっくりと味わってみた。仄かに甘いのは、ミルクのせいだろうか？


「クリスマスプディングは、聖者の誕生日を祝うケーキですが、ひと月以上も前に作り始めて、食べるまでの時間を楽しむお菓子でもあるんです。数日かけて作り、時には何ヶ月も熟成させ、最後に再び何時間も蒸し上げて熱々を頂く、その過程を楽しむお菓子です。待つのも味わいのうちなんですよ」
　カウンターの向こうで、蒸し上がったケーキを皿に盛りつけながら、そんなことを話すブランカに、
「わたしにこの時間を楽しめと？」
　彼女は苦笑いする。
「楽しくありませんか？」
「べ…」
　別に、と答えかけて、この状況を結構楽しんでいる自分に気付いた。
　こんな何気ない会話が（しかも微妙に噛み合ってないのに！）何故か楽しいのだ。肩肘を張らない世間話し。そう云えば、毎日笑い転げていたあの頃は、一日中そんな話しばかりしていたっけ。
　自然とこみ上げる笑顔の前に、大きな皿が運ばれて来た。
　白磁の皿に、まだ湯気を立てながらどっしりと鎮座する茶色いケーキ。
「わ、これ丸ごと？」
　波形の起伏が施された表面には多種多様のナッツやドライフルーツが覗いている。中心には縦穴が通っているが、それもケーキの重量を減らすことにはさして成功していないようだった。
「お、大きいわね…。それでなくてもヘヴィーなケーキなのに」
　とうてい食べきれないわよ、と突っ込む彼女に、
「せめてケーキを食べる時間は楽しんで頂きたくて、中におまじないの小物を仕込んでおきました。どうぞ、ご自分で好きなところをカットしてみてください」
　ブランカは柄に翼があしらわれた銀のナイフを差し出した。
「自分の取った部分に何か入っていれば当たりというゲームです。小物にはそれぞれ意味があって、良縁を呼ぶという『指輪』、独身貴族を謳歌できるという『指ぬき』、金運を招くという『コイン』、それから…」
　ザクッ…
　ブランカの説明を皆まで聞かず、彼女はさっさとナイフをケーキへ差し入れた。
　これにはブランカの方が苦笑い。
「何よその『本当にせっかちですね』と云わんばかりの顔は。面白そうだからその企画に乗ってあげたのに。…あ、」
　ナイフに、何か固いものが当たる感触。
「あった！」
　それが何かを確かめようとした、その時。

　…ぁい！

　声が聞こえたような気がして。
「え？　何？」
　顔を上げた彼女の視界が、くらりと歪む。
「あぁ、出ましたね。当たりです。これは…」
　出て来た小物の由来を話す、ブランカの声が遠い。

　やだ、何？　待って、良く聞こえない。何て云ってるの？
　わたし、何を当てたの？

　ブランカとケーキに意識を向けようとするのだけれど、身体はもういう事を聞いてくれなかった。そのまま白い世界へ飲み込まれてゆく。


　せんぱぁい！　うわぁ…ぁん

　聞き慣れた声が、呼んでいる。
　意識が浮上する感覚と共に、鈍い痛みが後頭部を襲った。
「アイタタ…。何なのよもう…」
「先輩！　良かった、気が付いた！　良かった！　大丈夫ですか？」
「…頭イタイ。わたし、どうしたの？」
「オフィスの入り口で、搬出の荷物と出会い頭に衝突したんです〜」
　後輩の涙でぐちゃぐちゃな顔の向こうに、配達業者の恐縮しきった顔が見えた。
　視線を巡らせれば、周りは見慣れたオフィスの天井と壁。倒れた拍子にリノリウムの床で、後頭部をしたたか打ったらしい。こぶは痛いが、大した事はなさそうだ。
　彼女はほっと息をついて、ゆっくり身体を起こし、取り敢えず業者に謝った。
「わたしの不注意で、ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫ですので、お仕事に戻ってください」
「ホントにビックリしましたよぅ。ものすごい音がしたんですから。先輩死んじゃったかと思って、もう何が何だか…」
　えぐえぐとまだしゃくり上げている後輩を見やる。こんなのが泣き叫んでいたんだから、業者もさぞ困った事だろう。
「大げさねぇ。泣き虫でおバカでどんくさいけど奇才あふれるこの後輩を見捨てて、今は逝けやしないわよ」
「それは云い過ぎですぅ〜せんぱぁい。でも気がついてよかったよぉぉう」
「うるさい、泣くなもう」
　言葉と裏腹に、彼女は笑っていた。憑き物が落ちたような、妙にスッキリとした笑顔で。
「本当に良かったぁ〜、あは、あはは〜」
　散々な云われ様の後輩も、つられて笑いだす。
「これからはもう少しゆっくり歩いてくださいよ、先輩」
「あんたに説教されるとはね」
「ひ〜、ご、ごめんなさい〜ッ」
「まぁいいわ。そうね。少しゆっくり歩きましょう。急がないといけない時は、きっと今じゃないんだわ」
　あのクリスマスプディングのように、じっくり時間をかけて熟成させることで、初めて味わえるものもあるのだろう。
「せっかちと皮肉屋は性分だから、そう簡単には治らないけど…」
　彼女は誰にともなく呟いた。
「食べ損ねちゃったクリスマスプディング、今年は自分で作ってみようかなぁ」
　そう云えば、何が当たったのかも分からずじまいだ。わたしとした事が、随分とぬかっている。
「ど、どどどどーしたんですかっ？　先輩、いきなり」
　打ち所が悪かったのかと慌てる後輩を尻目に、彼女はひどく楽しそうに笑ったのだった。
　

Fin