recipe1「紅茶のシフォン」

　ドアに取り付けられたクリスタルのスティックが、小さな風に透明な音をたてた。
　けれどブランカはカップを磨く手を休めない。自然な仕種で顔を上げ、
「いらっしゃいませ」
　落ち着いたアルトの声で客を迎える。
「可愛らしいお店ね」
　入ってきたのは年輩の女性。弱くなった足をかばうため、杖をついている。けれどその足取りは確かで迷いがなく、また、陰りのない瞳には穏やかな光が宿っていた。他には客のいない店内を一通り見渡してから、陽当たりの良い出窓の席へゆっくりと向かう。
「あら、素敵な椅子だこと」
　そう云って彼女が手を触れたのは、シンプルな作りの白木の椅子だった。背もたれに翼が一対あしらってあって、腰掛けるとその背中に羽が生えたように見えるのだ。同じ素材のテーブルは、表面が磨きこまれていて、陽の光を優しく反射している。
　暖かいテーブルに指を滑らせ、彼女はふふふと小さく笑って腰を下ろした。杖はテーブルに立て掛ける。
「ご注文は？」
　ブランカが声をかけると、僅かに首をかしげて考える仕種をした。
「そうね、あれ、何て云うのかしら？　ふわふわしていて…、そう、雲を食べてるみたいな…」
「雲…？　綿菓子、ですか？」
　当惑するブランカに、明るい笑い声を返す。
「いやだわ。綿菓子くらい云えるわよ。そうね、それも雲みたいだって思うわね。特に子供はね」
　云いながら、少しだけ遠くを見るように視線を彷徨わせた。
「でも、それじゃないの。ちゃんとケーキなのよ。普通のケーキよりずっとふわふわしっとりしてるの…。それに、紅茶の香りがしたわ」
　あぁ、とブランカが得心したように頷いて。
「シフォンケーキですね。紅茶の香りがしたのなら、紅茶の茶葉が入っていたのでしょう」
　その手はもう、新しいお皿の準備に取りかかっている。
「そうそう、それよ。紅茶のシフォン。お願いできるかしら？」
「お飲物はどうします？」
「暖かい紅茶を。でも、種類とか良く知らないの。そちらで選んでくださいな」
「承知しました」
　食器の触れあう僅かな音と、ポットからリズミカルに立ち昇る湯気の音。それが、この店のBGM。
　出窓は開け放たれていて、そこから心地よい風が流れ込んでいる。窓から見えるのは、どこまでも続く蒼い空。その空をキャンバスに、終わらない絵を描き続ける白い雲。ただそれだけ。静かで美しいけれど、抗うことの出来ない大きな流れに呑み込まれそうで、少し怖い。
　窓辺に置かれたクリスタルの一輪挿しには、菫の花が挿してあった。地上のいたるところで可憐に咲くその野草の、凛とした姿が怯える心を慰めるように揺れている。
　彼女はその小さな紫紺の花を、愛し気に見つめていた。
「…お待たせしました」
　磨かれたテーブルに白い皿が運ばれて来る。
「あら。変わった形をしてるのね」
　皿の上には台形の背の高いケーキが、パタンと寝かされていた。横には生クリームと柚子のソルベが形よく添えられている。
「これはシフォンケーキ専用の型を使って焼いたものです。シフォンは『絹』。貴女が『雲』のようだとおっしゃったものを、ケーキの名付け親は柔らかく滑らかな『絹』に例えたのでしょう。この柔らかさゆえに自らを支える力が弱く、焼き上がった後中心からしぼんでしまいやすい。それでこのような中心に穴の空いた型で焼くのです」
　中心に壁を作ることで、柔らかいケーキを支えるのだ。まるでそれは、雲を支える見えない柱のようだった。
「私が最期に食べたのは、小さなカップ型だったけれど」
「食べやすいように、持ち運びやすいようにとの配慮でしょう。小さな型ならそれ程しぼまないですし」
「ええ、きっとそうね。食べやすかったわ。手掴みで食べちゃった」
　少女のように笑いながら、紅茶の茶葉が混ぜ込まれたきめの細かいスポンジを指先でつつくと、しっとりと柔らかい感触とともに、飲む紅茶とはまた違った茶葉の香りがした。
「好い香り…。あの時と同じ」
　フォークでケーキとクリームをすくい、口に運ぶ。
「…美味しい」
　優しい笑顔がこぼれた。
　ブランカは温めたティーカップにそっと紅茶を注ぐ。クリスタルのポットの中で、開いた茶葉と花びらが優雅に舞い踊った。
「お花が入っているの？」
「そうです。貴女と貴女のケーキに合わせてブレンドしました」
「…綺麗。花の香りもするのね」
　光の中で琥珀色の紅茶がキラキラと揺れている。
「…私、幸せだったわ」
　ティーカップに両手を添えて、静かに目を閉じた。
「好きな仕事をずっとして来れたし、素敵な人と一緒になれたし。その人を看取ることもできた。そりゃ、辛かったり大変だったりいっぱいしたけれど、子供も授からなかったけれど、それでも、大切な人がたくさんいて本当に幸せだったわ。でも…」
　伏せたまつげに、玻璃の雫があふれる。
「後悔のない人生なんて、送れるはずない…。まだ、気になることもやり残したことも、たくさんあるの。どうしようもないって分かっているけれど…」
　濡れた瞳でブランカを見上げた。
「私の想いは、伝わっているのかしら…？　私は、何かを遺すことができたのかしら？」
　ブランカは甘い香りのする指先で、玻璃の雫をすくい取る。
「貴女の想いを受け継ぐ者はきっといますよ。『先生』」
　だって貴女も、そうして生きてきたのだから。
「少なくとも…、貴女が紅茶のシフォンを食べてくれたこと、あの子はきっと忘れない」
　昏睡とまどろみをくり返す病室で、もう食事も出来ないでいた貴女が、「美味しいね」と云って食べてくれたことを…。
「本当に…？」
「本当に」
　ブランカが天使の微笑みで頷くのと、『先生』の身体が白く発光し始めるのとは、ほぼ同時だった。
　陽の光に解けるように『先生』の身体は輪郭をなくしてゆく。椅子にあしらわれていたはずの翼が、羽ばたいたように見えた瞬間、
「ありがとう…」
　『先生』の姿はかき消え、そこには僅かな光の残像と不要になった杖だけがポツンと残っていた。
　さようなら。
　ブランカは窓辺に揺れる菫と共に、しばらくの間空を見上げていた。

Fin